少子高齢化で労働人口が減り、終身雇用制度が崩壊していく日本は新しい働き方を模索している。しかし残念ながら明確な答えは未だ見つかっていない。グローバル化が加速する中で、新しい働き方を創造するために設立されたのが株式会社サーキュレーションだ。埋もれている能力や経験を活用し、経験・知見が循環する社会を通じて世の中を豊かにすることを追求している。今回は代表取締役の久保田氏にお話をうかがった。


富士山と膨大な父の蔵書に囲まれて育った

1982年、静岡県東部に位置する富士川で、久保田氏は五人兄弟の長男として生まれた。京大で心理哲学科を専攻し、地元で最大の学習塾を営む父の「子供は自然の中で育てるべき」という教育方針のもと、山や川で泥んこになって遊ぶ子供だった。家庭ではゲームや映画は禁止。僅かに許されたマンガは、手塚治虫のみ。その代わり父の膨大な蔵書は好きなだけ読むことができた。「読む本には困らない幼少期でした。とても厳しい父でしたね。鬼塾長でもあったので、生徒もみな震え上がっていました(笑)」


当時の静岡県では、東大や京大を狙う進学塾はまだ珍しかった。静岡県の学習塾連盟の初代理事長だった父は、経営者というより教育者。自分にも人にも厳しく、いつも忙しく働いていた。父と一緒に過ごす時間は少なく、優しく褒められた思い出はないという。「塾と同様、私も父からスーパー詰め込みガッツ型の教育を受けました。『塾の息子』として優等生であることを求められました。学校の成績はぐんぐん上がりますが、勉強は好きじゃなくなる。だんだん父に反発を感じるようになっていきました」


小3で家出。進学のたびに勃発する父とのバトル

父の蔵書にあった数々の偉人の伝記に夢中になり「世の中を変える人になりたい」「早く働きたい」「広い世界を見たい」と感じていた久保田氏は、有名大学への進学が絶対と考える父とは対立するようになる。小3で静岡から横浜の叔母のもとに家出をした。「山や川で遊んだサバイバル経験のおかげか、小さい頃から勇気と行動力はありましたね。もっとも父と叔母は連絡を取り合っていたので、その後ちゃんと家に戻りましたが(笑)」


高校時代は、なるべく父と会わないように過ごした。

大学に入学するも、サークル活動で4年間遊び暮らす学生たちを目の当たりにし、そのモチベーションの低さに愕然とした。早く働きたいという気持ちが強かった久保田氏は、大学生活と平行して19歳で海外に荷物を届けるハンドキャリーとして働きながら広告業をスタートさせた。仕事は双方ともやりがいが大きく。自分が描いた学生生活に近づけていった。


突然父が倒れ、実家に戻り事業の倒産処理へ

自由な学生でありながら仕事をする生活を謳歌し始めた頃、突然父が倒れた。階段から落ちて昏睡状態が長く続くことになった。21歳だった久保田氏は急遽実家に戻り、父の事業を支えることになった。当時中小企業の倒産が相次ぐ中、父が個人資本で設立・運営していた事業は行き詰まり、久保田氏はこれまで経験のない倒産処理に携わることになった。「当時は事業に必要な現金がどこにあるのかもわからない。借金がどれだけあるのかも分からない。先生達は去っていく。落ち着くまでは本当に大変でした」


久保田氏の下には、これから大学進学を控えた弟や妹がいた。一家を支えるには、安定収入を確保できるサラリーマンになるしかなかった。「サラリーマンとして働くなら、これから伸びるマーケットに行きたい」「将来起業したときの仲間に巡りあえるところがいい」と考え、2005年にインテリジェンスに入社した。大学時代にビジネスを成功させ、倒産処理も経験してきた久保田氏はその「尖った経験」を根拠として、自信にあふれた新入社員の幕をあげた。ところが…。



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株式会社サーキュレーション 代表取締役 久保田 雅俊
1982年 静岡県生まれ
2005年 株式会社インテリジェンス入社
2010年 顧問ビジネスの社内ベンチャーを設立、社長に就任
2013年 同社,初の社内ベンチャーにて社員数40名まで拡大後、退任
2014年 株式会社 サーキュレーションを設立、代表取締役に就任
取材:株式会社ToBe 代表取締役 四分一 武 / 文:ぱうだー
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