今回から「海外における働き方はどのように生まれた?」シリーズが始まります。このシリーズは前の連載「日本における新しい働き方はどのように生まれた?」の続編ということで、視点を日本から海外に、特にオーストラリアに移し、オーストラリアの歴史を辿り、時には日本と比較しながらオーストラリアの新しい働き方がどのように生まれたかを見ていきたいと思います。
なぜオーストラリアを選んだのか?
今回の連載の対象国として、数ある国の中からオーストラリアを選んだ理由はいくつかありますが、まず、一番の理由は筆者がオーストラリアに在住していることです。特に、これまで現地の日系企業で働いてきたこともあり、そこで働く日本人とオーストラリア人の働き方の違いを目の当たりにし、なぜそのような違いが生まれるのかを知りたいと思ってきました。
次に、日本人が「世界一仕事好きな国民」であるのに対し、オーストラリア人は「人生を楽しむ」ことを重視している国民であり、その生き方、働き方が対照的であることです。
そしてもう一つの理由は、日本人の雇用形態がメンバーシップ型であるのに対し、オーストラリアの雇用形態がジョブ型であることです。
65,000年前から住んでいた原住民とイギリスの艦隊
では、本題に入りたいと思いますが、新しい働き方がどのように生まれたかを知るために、まず、オーストラリアの国がどのようにできたのかを見ていきたいと思います。
現在のオーストラリアはイギリス人の植民者が作った国です。イギリス人が来る前は、アボリジニと呼ばれる原住民が長い間住んでいました。今年7月には、オーストラリアの考古学者が更に古い化石を発見し、その調査結果によると、アボリジニは今から65,000年も前からオーストラリアに住んでいたことがわかりました。
イギリス人が来る前は、オーストラリアの北海岸にポリネシア人などの他の民族の接近もあったと言われていますが、東、西、南海岸地域はイギリス人が来るまでアボリジニだけが住んでいました。つまりアボリジニは6万年以上も外の世界から切り離されて生活していたのですが、この間農耕文化が伝わることもなく、ずっと狩猟生活をしていました。ちょうど鎖国時代であった日本の江戸時代と同じで、平和でゆったりとした生活を送っていたようです。
そんなところへ突然、キャプテンクック率いる一団が現在のシドニー近郊で当時ボタニー湾と呼ばれていた東海岸エリアに到着し、イギリスの王室によるオーストラリアの領有宣言を行いました。つまり、勝手に「オーストラリアは自分の国だ」と宣言をしたわけです。今から247年前の1770年のことです。それから、18年たった1788年には、アーサー・フィリップ率いるイギリスの艦隊が11隻の船に入植者約1200人と囚人約780人を乗せてやってきました。これが現在のオーストラリアの始まりとされています。
今でも続くアボリジニの闘争
オーストラリアに上陸したイギリス人は、早速土地を開拓し始めました。当時他の植民地でやっていたように―例えばアメリカでインディアンを殺して土地を奪ったように、オーストラリアでも、原住民を狩猟の一つとして虐殺した暗い歴史があります。メルボルンの命名者と言われているジョン・バットマンはアボリジニを虐殺しませんでしたが、物々交換を通して土地を手に入れたそうです。物々交換に使ったものは、当時イギリスで使われていた物でアボリジニにとっては珍しいものだったので、ある意味ごまかされて簡単に土地を受け渡してしまったのです。
更に1905年~1969年に掛けては時の州政府が「教育」するという意味で、アボリジニの子供を親から強引に奪い、白人の家庭で育てるという法律を定め、実際に多くのアボリジニの子供たちが親から無理やり離されたのです。このようなアボリジニの世代は「盗まれた世代(Stolen Generarion)」と呼ばれ、今でも話題に上ることがあります。
オーストラリアはイギリスの流刑地だった
オーストラリアの歴史の始まりを特徴づけるもう一つの点は、イギリスがオーストラリアを流刑地として使っていたことです。1788年~1868年の80年間で約161,000人の囚人がオーストラリアに送られ、このうち2/3は窃盗犯罪者で残りはアイルランドの政治犯罪者でした。
当時のイギリスでは、産業革命により様々な変化が急激に起こったため労働問題が発生し、人々の生活が不安定となり犯罪が多発していたと言われています。そのため、そうした多くの犯罪者を留置する場所が必要となりました。最初はイギリスの植民地だったアメリカに送っていたのですが、アメリカが独立戦争を通して独立してしまったため、代わりの場所が必要になりました。次に、カナダに白羽の矢が立ちましたが、気候がきびしかったためあきらめ、その代わりとしてオーストラリアを選んだのです。
原住民と犯罪者のその後は?
このように、オーストラリアの国としての始まりは必ずしも良いものではありませんでした。けれども、アボリジニについては、オーストラリア政府が「盗まれた世代」の政策について反省し、その後、社会福祉の特別待遇を受ける権利をアボリジニに与えてきました。また2008年には、当時の総理大臣であったラッド首相が政府としてアボリジニに対して正式に謝罪しました。それ以降、一般的なオーストラリア人とアボリジニの関係は進展したように見えますが、それでも毎年1月26日の「建国記念日」には「侵略の日」と呼んでアボリジニによるデモ行進が繰り広げられます。
一方、囚人は、刑期の途中で脱走しそのまま行方が分からなくなった者や、刑期終了後社会復帰し、一般人と同じようにオーストラリアの開拓に携わっていった人など様々です。その中には、建築家やビジネスマン、また画家などになり、成功した人も少なくないということです。
記事制作/setsukotruong