企業には必ず、浮き沈みがあります。どんな大企業でも、成長企業でも伸び悩む時期、業績が下がる時期があって当然です。それを乗りこえることができるかどうかが、さらなる成長への条件なのかもしれません。
一方、乗りこえられず、成長が止まる企業も少なくないでしょう。乗りこえられない理由として、いくつものことが考えられます。それに対する一つの答えを示すことも、経営コンサルタントに求められることでしょう。

 

今回お話を伺った正金氏は、過去に四社もの上場企業の業績を回復させてきた実績があります。その経験から導きだされることこそが、企業の成長に欠かせないヒントとなるかもしれません。

後にヒットする「カラオケボックス」を否定してしまった失敗から
「物事を多角的に見ることの重要性」を学んだ。

Q:いま54歳ということですが、まず大学を出てからは、どのようなお仕事に就かれたのでしょうか?

正金 一将氏(以下、正金)

大学を出たのが1980年代後半、まさにバブルの絶頂期でした。大学では法学を勉強していたのですが、最初は就職せず、司法試験の浪人をしていました。ところが、父の会社が傾き、その手伝いをすることになって司法試験は諦めたのです。結局、父の会社の後片付けが終わってから、中途採用という形で大手総合商社商事の系列会社に入りました。

Q:そちらではどのような仕事をされていたのでしょう?

正金

新規事業開発を担当していたのですが、当時はバブルで景気は絶好調でした。まさに「何をしてもいい」という勢いがありました。その会社は、本来取扱品目が決まった事業会社ですが、そんなことはお構いなしです。

 

具体的には当時、民営化されたばかりのJR東日本で、埼京線と中央線の高架下の空いた土地で何かできないかという企画がありました。100haもある土地の半分近くの用途が決まっていなかった。そこで、安いミニコンテナを持ちこんで、トランクルーム事業をやりましょうという企画を持ち込んでいました。他にも、自家用発電機をホテルに売りこむなんていうこともしていました。

Q:中途採用とはいえ、まだ、お若い時期だと思いますが、それだけの事業を任されていたのですか?

正金

何をやってもいいと言われていましたから。JR東日本に打ち合わせに行くと、毎回、部長、課長12人も打ち合わせに出て来ていましたね。実際、かなりの高架下スペースがトランクルームになりました。

Q:いまでこそ、トランクルームはビジネスとして認知されていますが、当時から需要が高かったのでしょうか?

正金

バブルで土地が上がり続けていましたから、荷物を安価に預けられるトランクルームの需要は増えていたんです。ただ、当時、ひとつ大きな失敗をしています。高架下をどう活用するかという話のなかで、カラオケボックスの企画を持ちこんできた会社があったんです。当時はまだ、私の中で、カラオケと言えばスナックで飲みながら歌うものという認識しかなくて、「そんなもの、流行らない」と蹴ってしまった。

 

結果は今や一目瞭然で、そのとき、カラオケボックスを高架下に展開していたら、間違いなくヒットしたでしょうね。この失敗は、私のビジネス人生に大きな影響を及ぼしました。それは「物事を考えるときに、感覚で判断しないで、多角的な視点で見る」ということです。異なった視点で考えるということを常に心掛けるようにしています。

会社の看板に頼りたくないと起業を決意。
しかし、退社1カ月前に断念。

Q:入社して間もない頃から、それほどの大きな仕事を任されていたのですね。

正金

自分では意識していないのですが、思い付いたらすぐに飛び込んでいく性格のようです。大学に入った頃も、野球の同好会を作ったのですが、同好会でもリーグに所属しないと試合ができない。そこで、20年以上の歴史があった六チームのリーグに目を付けたんです。1チーム、存続が怪しいところがある。そこで他の5チームに「入れかえてくれ」と話を持ち込んでいったんです。1年生のくせに生意気だと思われたと思います。どんなことにも物怖じせずに、突っこんでしまうんですね。なので、入社当初は社内で相当バッシングに会いました。

 

そうしているうちに、半年もすれば社内で「好きにやれば良い」みたいな雰囲気になりました。ただ、社内に限らず、グループ内でもぶつかるときがありました。自家用発電機を北海道のホテルに売りこんだときには、本社で電力機器を扱っていた課長から「俺が攻めている客に手を出すな」と怒られましたね。結局、私の方で契約ができたのですが。

Q:その会社も数年で退社されていますが、その理由は?

正金

二つ理由があったんです。一つ目は、当時、友人と「ねるとんパーティー」を企画して運営していました。毎回スポンサーを集め参加者が70人前後だったのですが全員にプレゼントがいくようにもしていました。評判も良く、7、8回開催した中で20組以上結婚してもいました。それで、ビジネスとして起業しようかという話になりました。

 

それと、仕事をしていく中で、大手総合商社の看板に頼っているという気持ちが出て来た。20代の若僧が大企業の部長、課長を相手に大見得を切れるのも、会社の看板があってこそ。いまから思いかえすと若気の至りですが、当時は「このままだったら、看板なしで仕事が出来ない人間になってしまう」と思ったんです。
ところが、友人と起業すると決めて、退職願も出して、あと1カ月で辞めるという時に、起業を辞めました。幾つかの理由でこのままだったら失敗すると思って、話を白紙にしたんです。でも、退職願は出している。これは引っこめられない。これは困ったなと思って、本社の役員に相談に行きました。

Q:グループの関連会社の、いまから辞めようという一若手社員が、グループ本社の役員に、ですか?

正金

新規事業をやっていた頃から、グループ内でバッティングすることも多くて、知られていたんですかね。理由はよく判らないですが。けむたがっていた人もいたでしょうが、私を買ってくれている人もいました。その役員の方も、私を可愛がってくれていたんです。そこで、相談したら、香港にいかないかと言われたわけです。

右も左も分からない香港で
幅広いビジネスの”仕組み作り”を経験出来た。

Q:そこで香港で仕事を始められたのですね。香港では何をされたのでしょう?

正金

最初は、ボスがいたのですが、主にヤオハン向けに、フィリピンのマグロを生で香港に空輸するだとか、ノルウェーの生サーモンを空輸するといった、仕入れの仕組み作りをしていました。他のスーパーでもヤオハンでの仕組み作りを転用した提案を持ちこんだりしていました。
他にも当時、ソ連が崩壊したばかりで、ロシア製のヘリコプターのアジアへの販売をお手伝いしたり。また、台湾で有名なテーマパークのオーナーと話をして、ある有名なキャラクターのテーマパークの企画を進めたりしていましたね。実際に正式契約寸前まで話が進んだのですが、原作者の先生が亡くなられて、企画は立ち消えになってしまいました。

Q:香港時代はかなりいろんなことを手掛けられたのですね。

正金

当時は、香港だけでなく、日本でも企業のマニュアル作りや組織作り、教育なんかのお手伝いもしていました。

Q:正直にお話しすると、伺っていて、なぜ正金さんにそういった相談が集まるのか、そういった依頼がされるのか、わからないんです。当時、20代~30代で、コンサルタントの経験があるわけではないですよね。

正金

それは私にも分からない。ヘリコプターにしてもテーマパークにしても未経験で最初は断わったんです。両社だけでなく、他の仕事でも全く同じ言葉をよく言われました「正金さんなら大丈夫」。 本人が自信ないと言っているのに、他人のあなたがなぜ保証するの、とよく思いました。おかげで、その度に1から色々な勉強をしなければならなかったんです。

 

けれど、意識していたことは、「自分にかかっているコスト分は仕事をしなければならない」ということです。大手総合商社時代も自分の給料と諸経費、アシスタントの方の給料なんかを考えれば、自分が最低限、どれだけの利益を出さなければならないかは、常に意識していました。それは、どんな仕事をしているときでも変わらない部分ではありますね。

 

―香港から帰国してから、正金氏は今に続く、外食、中食産業に身を投じます。しかし、当時の正金氏は、仕事への情熱を失っていたそうです。次回、その理由とそれから起こったことをお伺いしていきます。

取材・執筆:里田 実彦

関西学院大学社会学部卒業後、株式会社リクルートへ入社。
その後、ゲーム開発会社を経て、広告制作プロダクションライター/ディレクターに。
独立後、有限会社std代表として、印刷メディア、ウェブメディアを問わず、
数多くのコンテンツ制作、企画に参加。
これまでに経営者やビジネスマン、アスリート、アーティストなど、延べ千人以上への取材実績を持つ。