外国人労働者を受け入れるメリットとして、「異文化交流ができる」「他文化への理解が深まる」などが挙げられています。ですがそういうことが言えるのは、外国人との共存を甘く見ているからではないでしょうか。その程度の認識は、正直甘いと言わざるをえません。

たしかに、多様性は日本の経済を活発にするかもしれません。さまざまな背景を持った人が集まることで、企業に改革がもたらされるかもしれません。ですがそれと同時に、文化摩擦や衝突が起こることを、もっとしっかりと理解していなくてはいけないのです。

異文化はあくまで「異物」である

わたしは現在ドイツに住んでいて、本連載でも何度かドイツの事例について言及しています。ドイツに関わらず、EUは全体的に「自国民優先」という世論に傾き始めています。いままでは人道的理由を掲げて移民や難民を「寛容に」受け入れていたにも関わらず、です。

理由はいくつかあります。移民や難民が増えすぎて扶養するための税金がかかりすぎていること、失業率が上がり治安が悪くなるという懸念、テロへの恐怖などが挙げられるでしょう。ですがそこに、「生理的に受け入れられない」という気持ちも、多少なりともあるのではないかと思うのです。

ヨーロッパは基本的に、キリスト教を基盤として発展してきました。現在は宗教の役割は薄らいできていますが、それでも基本的価値観はキリスト教に基づいているのです。日本も、宗教意識なく、仏教や神道などに根付いた価値観が浸透していますよね。それと同じです。

そこに、イスラム教という「異物」がなだれ込みました。信仰がちがうからといって不利な扱いをすることは禁じられていますし、多くの人は他人の信仰自体には文句はないでしょう。ですがその人数が増えれば、話はちがいます。「いずれ自国がイスラム教にのっとられてしまうのではないか」と危機感を覚える人が増え始めたのです。

もちろん、イスラム教がヨーロッパで主流となること自体が悪いことではありません。ですが多くの人が、その現実を受け入れられない、受け入れたくないのです。このような、「言葉では言い表しづらい心理的抵抗」が文化摩擦なのです。

文化摩擦は印象の悪化によって大きくなる

文化摩擦の例として、ひとつのデータをご紹介いたします。statistaによる、『イスラム教に対してどんなイメージを持っているか』(筆者訳)というアンケート結果です。

ドイツ全体では、イスラム教は「女性を不利に扱っている」が82%、「狂信」が72%、「武力行使をいとわない」が64%となっています。一方、トルコ人(トルコ系)は「女性に不利に扱っている」と答えたのが20%、「狂信」が18%、「武力行使をいとわない」がたった12%になっています。

トルコ系の人の多くは、イスラム教のイメージとして「安らぎ」「人権の尊重」「寛容」などと答えています。一方、ドイツ全体では、その3つのイメージはほとんどないようです。

ここで問題なのは、実際ムスリムの人たちが女性を不当に扱っているかどうかではありません。多くのドイツ市民が認識しているイスラム教と、トルコ系の人が認識しているイスラム教には、大きな隔たりがあるということです。

ごく一部のムスリムによるテロによりイスラム教自体のイメージが損なわれてしまったこと、ヨーロッパでの「人権」とイスラム教国での「人権」の考え方がちがうことによる考え方の差などが、このアンケートにありありと表れています。

ちがう宗教を信仰していたら、ちがう価値観を持っているのは当たり前です。ですが文化摩擦は、双方の印象が悪くなることによって、さらに顕著になります。お互いが悪い印象を持ってしまうと、「ちがい」をさらに強く感じ、「受け入れられない」と思ってしまうのです。

外国人と共存する本当の意味

異文化交流というと、お互いの文化を尊重して理解しあう、キラキラとしたなんだか素敵な世界のように思えます。ですがそれは、異文化が出会ったときの「キレイな面」でしかありません。

一対一で知り合ったとしたら、多くの人が「外国人」を受け入れるでしょう。ですがそれが、1万人、2万人だったらどうでしょう。日本に外国人向けに土足で過ごすことを前提としたマンションが立ち並び、ベジタリアン用のメニューがどのレストランにも用意されたら?

最初は、「国際化」として受け入れられるかもしれません。ですがだんだん、「日本がなくなる」と危機感を持つようになるのではないでしょうか。外国人労働者を受け入れることで、本当に日本は異文化に対する理解が深まり国際化するのか、疑問です。

むしろ異文化交流により「自分は日本人だ」というアイデンティティが強くなり、ナショナリズムに傾くことがおおいに考えられます。それは欧米を見ていたらわかることです。また、他文化を知ったからこそ、それに対するネガティブな感情を持つ可能性だって少なくはありません。

わたし自身は、さまざまな文化に触れることは素晴らしいことだと思っています。ですが個人で体験するのと国として受け入れるのでは、まったく意味が異なります。

異文化というのは、本来異物なのです。少しの異物なら、うまく中和できるでしょう。ですがそれがあまりに大きいものだったら、持て余し、衝突してしまいます。外国人労働者を受け入れるとき、「国際化」や「異文化交流」をかんたんに口にするべきではありません。異文化交流とは、綱渡りのようなものなのですから。

取材・記事制作/雨宮 紫苑

ノマドジャーナル編集部
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