行政改革の専門家である元松阪市長の山中氏。大学在学中には歌舞伎町でスカウトとして働き、医師となり、政治家の道へという山中氏の異色のキャリアはどのように形作られたのでしょうか?今回は前回に続き行政改革の当時のお話から、そのキャリアの道筋を伺いました。
地域間格差が出るのは当たり前。
Q:行政改革をここまで進めるには、市民との間に葛藤もあったのではないでしょうか。
山中光茂さん(以下山中):
そうですね。絶対に、綺麗ごとだけでは人って動かないじゃないですか。だから、いくら私が市民に「一緒に汗を流そうよ」と言っても、はじめは「住民協議会なんて、どうせ行政の下請機関みたいに使われるのでは」といった意見も多くありました。そして「そんなことをしたら地域格差が出るんじゃないの?」という声もありました。
よく首長の中には「地域間格差は出ないようにします」と、言う人もいますが、私は「当然、地域間格差は出ます」と、はっきりと言わせていただきました。「地域間格差をマイナスの側にではなく、プラスの側につくっていくシステムです」と、言い切るとともに「頑張らなくても良いです」とも言いました。強制でやらされていると感じれば、それは苦痛になります。やらされ感も出ます。それなら「やらない幸せ」というものあって良いですよ、と伝えました。みんなで集まって地域をつくる、でも頑張りすぎなくても良い。私が行政のシステムを変えることで、市民の皆さんにとっては、新しいことを始める選択肢が生まれます。でも、それは必ずやらなければいけないというものでもない。そして、これは行政から市民への丸投げという話ではなく、これをやるということは、間に入る行政にとってもどれだけ手間がかかることなのか。そんな話も併せて伝えました。
話し合いを重ねる中で、次第に「自分たちで頑張って、行政もそれをサポートしてくれるならいいよね」という意識が市民の間に芽生え始めました。思うのですが、何かハードルがある時に、対話から逃げてはいけないのです。対話をせずに逃げてしまい、結果、それで市民に説明がつかないことをやってはいけないのです。たとえ私が市長として自分が良いと思うことに絶対の自信があっても、必ず事前の対話には時間をかけるようにしていました。それが、私のやり方であり、市政を育てる意義深さでもあると思います。
Q:「しがらみなき行政」をかかげ、実際に、財政改革においても市の借金を
100億円ダウン。保育園の待機問題も1225人分の増員を実現。他にも大きなご実績をたくさん出されていた中、なぜ市長を辞職されたのですか。
山中:
私は、就任した翌日から「2期8年以上は、絶対に市長はやらない」と公言しておりました。山中がいるから前向きに進んでいる街づくりではダメだと思いますし、山中がいるから行政改革ができる行政職員ではいけないのです。
時期が1年早まった理由としては、当時、メディアで取り上げられた図書館事業や議会との対立というのは本質ではありません。メディアの伝え方にも課題があり、そこにはメディアとの戦いがあったわけですけれども、最後の最後まで市民には、「なぜ辞めるの?」と、問われました。1つ言えることは、私がいることによる弊害があまりにも大きくなり過ぎた、ということでしょうか。議会が「オール野党」であることは動かしようがなく、山中が言うことは議会は承認しない、ということが本当に多かった。本来、早く決着がつくことが先延ばしになる。自分がいることで市民の幸せが削がれているのではないか、ということを深く考えるようになりました。市民からは、私が辞めるのではなく議会が解散すべきということでリコール運動が起こり、4万票を超える署名が集まりました。その気持ちは嬉しかったですよ。ただ、市長としてのキャリアに幕を引くという気持ちに変わりはありませんでした。
そして、いざ辞めてみると、今度は再び、現場に入るかたちでの支援がしたいという気持ちが沸き起こりました。20年くらい昔の若い頃の感情が戻ってきたというか。久しぶりに自分自身のライフモチベーションに立ち戻りました。
Q:市民と行政の間に信頼関係が生まれたのですね。
山中:
そうです。そして、このような取り組みをするとメディアもその場に入ります。こういった議論の機会がメディアに取り上げられ、そこに参加できなかった市民にも、場の存在が認知されるという好循環が生まれたのも良いことでした。
「地球の裏側の現実に対して、一生涯かけて関わっていく」
幼少期から持ち続けるライフモチベーションの存在。
Q:ライフモチベーションという軸は、いつ頃からお気持ちの中にあったのですか。
山中:
小学校4年生の時、学校の授業で飢餓に苦しむアフリカの難民を見て、大きなショックを受けました。20歳くらいまで、その姿がずっと夢に出続けるほど忘れられなかった。途上国の問題、アフリカの問題、平和への課題。地球の裏側の現実に対して、一生涯かけて支援していきたい。そんな想いが、幼少期から深く自分の中に根づいていました。それが生きる目的であり、人生の軸となりました。
Q:その頃からそれだけ強い想いをお持ちだったのですね。
そして、三重県から東京の慶應義塾大学法学部に進学されて。
はい。大学4年の進路選択で、1つの転機が訪れました。国際問題に携わるなら外務省だろうと思い、外交官試験に合格しました。でも、落ち着いて考えてみれば当たり前のことだったのですが、外務省というところは、まずは日本の国益のために働く場所なんですよね。21歳か22歳の純粋な頃ですから、それに気づいた時、外務省に進む意義を感じられなくなってしまったのです。やはり自分は、途上国の問題であるとか、国際社会全体の課題に対してもっと俯瞰的な立場で支援したいと考え、外務省を辞退しました。
さて、どうしようかなと思っていた矢先、群馬大学が、社会人を対象に3年次からの編入学試験を実施するというニュースが飛び込んできました。温泉に泊まり込んでの合宿入試というユニークな試みでした。これはいいな、と。医学部に進むというのは自分にとって魅力的な選択肢でした。地球の裏側に行って多くの人々を支援するために、医師の道に進むのは悪くないのではないかと思いました。さっそく応募したところ、合格枠15名に対して応募者2500名が殺到。そのような中、運良く合格したのです。自分以外は全員理系、半分以上が東大出身でした。外務省辞退のくだりを応募背景に書いたのが功を奏したのか、いずれにしてもラッキーでした。
しかし、今度は医学部在学中に母親が乳がんになってしまったのです。突然、お金が必要になりました。元々うちはお金がなかったので、さてどうしようと思案しました。結局、1年だけ休学して歌舞伎町でキャバクラのスカウトというのをやりました。正確には、キャバクラスカウト全体のマネジメントのような仕事というのでしょうか。慶応大学の在学中にも学費を稼ぐためにやっていたのです。事情が事情だったので、期限を決めて再開しました。当時、24歳で年1500万円くらい稼ぎましたかね。
Q:すごいですね(笑)。
山中:
政治家になっても貯金が100万円以上たまったことがないので、人生でいちばん給与が良かった時期です(笑)。そして、無事学業に復帰し、いよいよ卒業が近づきました。本来は、医学部を卒業する前の年から研修に入るのが通常です。群馬だと西群馬病院のホスピスや国立国際医療研究センター病院などですかね。しかしながら、医師免許は取ったものの、当時の自分は一刻も早く海外に出たかった。途上国の医療施設で、常勤で働きながら医療活動に従事したいと考えていました。でも、やはり5年、10年の医師経験を積まないと海外派遣の道はないわけです。国境なき医師団なども、医療経験が3〜5年あって初めて医師として参加できる。それならば、医師という肩書きでなく簡単な医療補助でも良いので、とにかく一度、20代のうちに途上国の支援活動に赴こうと決めました。
(後編に続きます)
取材・記事作成:伊藤 梓
撮影/加藤 静
医療法人SIRIUS いしが在宅ケアクリニック 医師
三重県松阪市 元市長
1976年 三重県松阪市生まれ。1994年 慶應義塾大学法学部入学後、外交官の学科試験合格を辞退し、1998年 群馬大学医学部に編入学。医師国家資格取得。アフリカに渡りエイズ対策に関するNPO活動に取り組む。その後、無投票続きで40年間に三度しか市民投票がなかった三重県松阪市において、2009年 自民党・民主党・業界団体・労働組合が連携推薦した現職市長を約8,000票差で破り、33歳で全国最年少市長として就任。2015年 松阪市長辞職。2016年1月以降は、いしが在宅クリニックに医師として勤務しながら全国各所で行政改革のコンサルティングや講演活動を行う。
著書『巻き込み型リーダーの改革-独裁型では変わらない』日経BP社
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