医師免許はとったものの、一刻も早く途上国の支援活動をしたかったという山中氏。
国内で研修医をせずに、松下政経塾へ入り、NPO法人から途上国支援の道を拓きます。エイズ罹患率42%の島など途上国で目にした様々な現実、そうして様々な縁を得て政治の道へ。政治から身を引いた現在は在宅医療に従事し、同時に行政改革の専門家としても活動している山中氏のそれまでの経緯を伺いました。

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アフリカへの渡航のきっかけをくれた松下政経塾との出会い。

Q:どのような経緯で途上国支援に行くことができたのですか?

山中光茂さん(以下山中):

さて、就職はどうしようという時、松下政経塾の存在を知りました。社会貢献活動として地球の裏側の課題に取り組みたいという話をお伝えしたところ、成果報告さえすれば、毎月一定のお給料をいただくかたちでスポンサードをしていただけるというありがたいお話がありました。松下幸之助さんの初心にあった政経塾というのは、政治と経営を担う次の世代を育成するという目的であり、政治家だけを育てるわけではない、そういう志を持った人間を受け入れる、と。それを聞いて、是非とのことで参画させていただきました。最近は政治家育成塾の色が強いようですが、私の時はそういったかたちでご支援をいただくことができたのです。

最終的には「少年ケニヤの友」というNPO法人の中で活動を行いながら、松下政経塾という肩書を持つかたちで途上国支援への道をつくることができました。

Q:意志が道を開いたのですね。

山中:

そうなんです。周りの方々のおかげでご縁をいただき、ありがたいことです。南アフリカに3ヶ月、翌年は1年間ケニアに行かせていただきました。

差別が繰り返される現実に直面。南アフリカにて

Q:何としてでも行きたかった途上国に、ついに、ですね。
南アフリカではどのような体験をされたのでしょうか。

山中:

はい。ちょうど南アフリカのワールドカップが行われる少し前で、日本でテレビを見ている分には「もう南アフリカは生まれ変わったよ!」というメッセージが発信されているように見受けられたのですが、実際に行くと、現実はまったく違いました。その当時、黒人居住区・白人居住区という人種隔離政策が廃止されて20年ほど経っていました。それにも関わらず、スクワッターキャンプと呼ばれる実質的な黒人居住区は、アパルトヘイトが存在していた時よりも広がっていると言うのです。

短い期間ながら、私もスクワッターキャンプの中で生活をさせてもらったのですが、驚いたことに、黒人の中でも色の黒い黒人を、色の薄い黒人が差別するんです。どちらの黒人も、白人から差別された経験がある分、痛みに優しくなれそうな気がするじゃないですか。しかしながら、そこには痛みを背負っている人が、さらに立場の弱い人たちを見つけて、さらに差別を繰り返すという現実がありました。確かにマンデラさんが出てきて、一見経済は良くなり、国際的なイメージは多少出てきたけれども、過去に一度つくってしまった負の遺産を元に戻すのは、こんなにも難しいものなのか、と。20年経っても縮まらない10%の白人と90%の黒人の生活格差を目の当たりにして、深く考えさせられました。

Q:なるほど。

山中:

まったくの余談ですが、当時、結婚しようと思っていた女性がいました。相手もそういった支援の気持ちがある方で、次のケニアへは一緒に行こうと思っていました。しかし、ちょうど大統領選挙の前で治安が非常に悪くなり、女性は危険だからということで一緒に行けなくなりました。それがきっかけで、人生で最も愛した女性と別れてしまったのです。今、思い出してもあれは本当に辛かった(笑)。まあ、そんなこともありつつ、ケニアに行きました。田舎とも言えないくらい道なき道をガタガタっと車で行きますと、ナイロビから8時間くらい離れたところに、エイズの罹患率が42%という地域があるのです。現地で30年以上、活動しているNPOでさえも入って行かないような地域です。現地語も英語もたいして喋れない中、一人でコミュニケーションを取りながら現地に入り、現地の人たちと同じような食事をして、現地の人たちと同じようなところに泊まって、一緒になって動いていました。

エイズ罹患率42%の地域で現実の課題にアプローチ

山中:

最終的には、さらに4時間ほど離れた奥地に進み、ビクトリア湖という湖に浮かぶムファンガノという離島に渡りました。エイズ罹患率が42%という地域の中でも、ほとんどの島民がエイズ罹患者ではないかと言われる島です。自分で船を借りて、ぼろぼろのボートで何度か転覆しながら上陸しました。

Q:凄まじい熱意と行動力ですね。

山中:

とにかく行かなければと思ったのです。その島にある学校で、ダンという先生と知り合いました。エイズの罹患率の高さはもちろん、学校の先生が生徒をレイプするようなひどい状況の島でした。さらには、未亡人が夫の兄弟に引き取られるという妻の相続の慣習や、海岸沿いに立つ女性たち、彼女らは魚を安く買う代わりに漁師らに自分たちの身体を提供しているのです。こういったことがさらにエイズの感染拡大を引き起こしていました。

ダンはそんな中でも良識を持っていて、一緒にプロジェクトを始めようという話になりました。自分が橋渡しをしながら日本の外務省と組み、エイズの啓発教育を行おう、地域の健康づくりを守るナースの育成をしたり、エイズの検査ができる拠点を作ろう、最低限の医療キットみたいなものを持って動けるような巡回医療のようなシステムを作ろうなど、アイディアは尽きませんでしたね。プロジェクトの立ち上げから動き始めまで支援したところで他の方に委ねて帰国したのですが、とにかく土台づくりに奔走した1年でした。

政治が一度壊してしまったもの、
間違ったかたちでつくりあげてしまったものの根深さ。

Q:最初の南アフリカでは、政治が生活に及ぼす影響の深さを体感をされ、ケニアではエイズ罹患率の高い地域に飛び込みながら、現実の課題と真っ向から向き合われて。ライフモチベーションのお話にもありましたが、山中さんの直接現場に入り、感じ、対話することを大切にされる姿勢は、その当時から今に至るまで変わらないのですね。

山中:

そうですね。現実の課題にアプローチするためには、政治に対して関わることも必要。現場に入って苦しむ人々を支援することも必要。結局は、両面ですね。

Q:日本にお帰りになられてからは、どのようなことをお考えだったのでしょうか。

山中:

帰国後は、自分が何をしたいかというより、障害を持っている方、生活に困難を抱えている方など、声なき声を聞き、痛みが大きい方々を支える活動がしたいと考えていました。スウェーデンの福祉に詳しい国会議員の山井和則さんのご縁でスウェーデンに視察に行かせていただいたり、その繋がりで伊藤忠治さんの秘書となり、そして28歳で民主党の三重県連の事務局次長を務めさせていただきました。その間にも、アフリカには何度も行き、民主党の岡田克也さんをお連れしたこともあります。その後、岡田さんとは色々あって大喧嘩をしたりもしましたけれども、今でも気にかけていただいています。ありがたいことですね。

Q:松阪市長就任までに、実に様々なご縁があったのですね。

山中:

はい。ただ、政治家になろうと思って進んできたわけではないのです。あくまで「地球の裏側の現実に対して、一生涯かけて関わっていく」「現実の課題にアプローチする」という自らのライフモチベーションに従って突き進んできたら、結果、ここにいました。
30歳前後で、一度、医師の道に戻ろうかと考えたこともありました。その時は政治の道に進みましたが、こうして市長を終えた今、40歳で医師の道に戻ってきました。不思議なものです。

在宅医療を支える医師として、行政改革を推進してきたプロとして。

Q:今後についてはどのようにお考えですか。

山中:

市長を辞めた後、行政関係からのお誘いも数多くいただきました。いろいろ考えたのですが、最終的には、今のいしが在宅ケアクリニックさんとのご縁を選ばせていただきました。医院長・石賀さんは、お人柄が素晴らしく、非常に先を見据えた方で、年間約350人の方の看取りをしており、西日本では最大規模の在宅クリニックです。医師としての実務経験がほとんどない私としては、在宅医療の環境や、医師としての心構や技術などをありがたく学ばせていただいている最中です。とはいえ、信頼もない、実績もない、技術もない、誰よりも下っ端な上に、40歳のおっさんです。それなら若者の方がマシですよね。周りの看護師さんたちからすると、相当使えないおっさんと思われているかもしれません(笑)。

でも、病院医療から在宅医療への大きな転換期を迎えている今、現場の患者さんの声に耳を傾けながら医療活動に取り組めるというのは、私の人生の目的において非常に価値のある機会だと思っています。

Q:そして、経験を生かし、行政改革のご支援にも取り組まれていらっしゃるのですね。

山中:

そうなんです。医院長の石賀さんは非常にご理解のある方で行政の支援活動も継続しています。愛媛県新居浜市、岐阜県各務原市など全国から多くの依頼を受けています。常勤勤務で月曜から金曜は医師としての仕事をしていますが、17時以降はフリーですし、土日は休みなので、在宅医療に携わりながら行政改革支援の活動ができる環境というのは本当に恵まれていると思います。続けていきたい取り組みです。

取材・記事作成:伊藤 梓
撮影/加藤 静

山中 光茂
医療法人SIRIUS いしが在宅ケアクリニック 医師
三重県松阪市 元市長
1976年 三重県松阪市生まれ。1994年 慶應義塾大学法学部入学後、外交官の学科試験合格を辞退し、1998年 群馬大学医学部に編入学。医師国家資格取得。アフリカに渡りエイズ対策に関するNPO活動に取り組む。その後、無投票続きで40年間に三度しか市民投票がなかった三重県松阪市において、2009年 自民党・民主党・業界団体・労働組合が連携推薦した現職市長を約8,000票差で破り、33歳で全国最年少市長として就任。2015年 松阪市長辞職。2016年1月以降は、いしが在宅クリニックに医師として勤務しながら全国各所で行政改革のコンサルティングや講演活動を行う。

著書『巻き込み型リーダーの改革-独裁型では変わらない』日経BP社
ノマドジャーナル編集部
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