現代よりも社会進出が難しかった明治〜昭和の時代にも、キャリアを積み重ねた女性たちがいます。たとえば、今では当たり前にあるお菓子やエンターテインメントは、彼女たちの活躍によって築きあげられたものでした。「女性は家庭」という考えが当たり前だった時代において、女性たちはどのように地位を確立してきたのでしょうか。
芸術を愛した「新宿中村屋」の創業者・相馬黒光
洋風文化が日本にもたらされ、「文明開化」が始まった明治時代。当時は女性にまだ参政権もなく、男女平等とはほど遠い社会でした。そんな中、婦人運動家の平塚らいてうらが『青鞜(せいとう)』を発刊するなど、女性の地位向上を後押しする流れが起こります。
相馬黒光(そうま こっこう)という女性も、らいてうに負けないほどのキャリアを築き上げた一人です。宮城県の仙台に生まれた黒光は、東京にある明治女学校で学びます。この学校は芸術市場主義を謳っており、作家の島崎藤村などが教師となって授業が行われていました。自由でユニークな学校で学んだ黒光は周りに影響され、自身も小説の創作に励むほどでした。
明治女学校を卒業後、黒光は相馬愛蔵と結婚。長野に嫁ぎましたが田舎の生活が合わず、愛蔵とともに上京します。二人は本郷にある東京大学の近くで、パン屋を営み始めました。このお店が現在、老舗菓子屋として年間400億円以上の売上を誇る「新宿中村屋」の元祖です。
黒光はシュークリームを真似てクリームパンを開発したところ、これが大当たりします。売上は伸び、明治42(1909)年に相馬夫妻は新宿へ店舗を移転。後に「黒光あられ」、「黒光餅」など、黒光は自分の名前をつけた商品を販売しました。
また、黒光は芸術にも造詣が深く、中村屋には彫刻家の荻原碌山や詩人の高村光太郎ら文化人が集うようになり、これは「中村屋サロン」と呼ばれました。
さらにこの時期、中村屋にとって大きな転機が訪れます。日本に亡命していたインドの独立運動家であるラス・ビハリ・ボースを匿ったのです。その際、ラスの勧めにより、本場のインドカレーを土台とした「純印度式インドカリー」の製造・販売を開始。
日本では小麦粉を使った欧風タイプのカレーが広まっていたため、骨付きの大きな鶏肉や、スパイスの強烈な香りに戸惑いを隠せなかった人々も、改良を重ねることで、次第に売り上げが伸びていきました。洋食屋のカレーが約10銭〜12銭だったのに対し、中村屋のカリーは80銭。しかし当時は飛ぶように売れたといいます。純印度式カリーは名物料理として、中村屋で人気を博したのでした。
(参考:新宿中村屋HP https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/products/pro_001.html)
こうして、さまざまな人を迎え入れて周囲に愛された彼女は、お年寄りにも労りの目を向けます。晩年に老人ホームの設立に向けて、資金集めに奔走。その資金をもとに、黒光が亡くなった半年後の昭和30(1955)年、杉並区に「黒光ホーム」が建設されました。
ビジネスの才のみならず、芸術家への愛情も持ち合わせ、最後まで周囲の人間のために力を惜しまなかった黒光。一方で自身でも9人の子供を産み育てるという、母親としての側面もありました。女性がまだ社会進出していなかった時代に、育児と仕事の両立を実現した、まさに驚嘆すべき女性といえるでしょう。
参考文献:『明治・大正を生きた女性』
モダンガールの元祖・望月百合子
1914年、第一次世界大戦が始まります。欧米の女性は髪を切り、戦地に行った男性の代わりに国で奮闘しました。消防署や軍需工場で働くその姿は、広告等を通して大正時代に突入した日本にも知れ渡りました。
この影響を受け、大正時代には欧米の文化を取り入れたファッションや生き方が流行します。断髪し、洋装をまとった女性は「モダンガール」と呼ばれました。
元祖・モダンガールとしていちはやく街に繰り出したのは、当時新聞記者をしていた望月百合子(もちづき ゆりこ)です。
百合子は明治33(1900)年に生まれ、東京の高等学校を卒業。結婚の話がありましたが辞退し、19歳で読売新聞社に入社しました。出勤前に長い髪を結い、着物を着ることは百合子にとって非常に大変でした。そこで、彼女は友人と美容院で髪を切るという、大胆な行動に出たのです。その際に1ダース分の靴や下着、靴下もあつらえてもらったといいます。
当時、特に女性が髪を短く切ることは、「女を捨てる行為に等しい」と考えられていました。百合子の生き方は、いいか悪いかという判断は別にして、かなり先進的だったと言えるでしょう。
また当時は、男性でさえ珍しかったフランス留学を敢行し、後に翻訳家としても活躍。昭和13(1938)年には満州へ渡ってジャーナリストとして現地の報道を行うなど、時代が許してくれる最大限まで活動の幅を広げていきました。
なお百合子は生涯、「アナーキズム」を訴えた女性としても有名です。国家に縛られるのではなく、一人ひとりが規律を持って行動することを主張し続けました。
こうした彼女の意志は、後世の女性たちにも受け継がれ、2001年には「NPO法人 現代女性文化研究所」が設立されました。ここでは講演会や交流会を通し、すべての女性が自由に活躍し、才能を発揮できる場の創造を目指した活動が行われています。
参考文献:『断髪のモダンガール』
家族を次々に亡くしながらも、愛と笑いを届けた吉本せい
2017年の秋から、「わろてんか」というNHKの連続テレビドラマ小説が放送されます。ドラマの主人公は『吉本せい』。大正から昭和初期まで生きた女性がモデルです。実は彼女は、多くのお笑い芸人を輩出している「吉本興業」の創業者。激動の時代の最中、吉本せいは懸命に事業を拡大し、「女今太閤」とまでいわれた女性でした。
せいは明治11(1889)年に兵庫県で生まれます。明治43(1910)年に21歳で吉本吉兵衛と結婚した後に、大正元年(1912)に大阪で寄席の経営を開始。第一次世界大戦が始まり日本が苦境に陥っても、吉本夫妻の勢いは止まりませんでした。大阪にある複数の寄席を買収し、いわゆる「チェーン展開」を行っていきます。
さらに大正10(1921)年には神田の寄席も買収し、東京に進出。徐々に勢力を広げながらも、この間に8人の子供を産みます。しかしそのうちの5人は、若くして亡くなってしまいます。追い打ちをかけるかのように、大正13(1924)年には夫の吉兵衛が他界。34歳で未亡人となり、せいは当時抱えていた28軒の寄席を、総責任者となって経営せざるを得なくなりました。
しかし、ここでせいは本領を発揮し、寄席を拡大し続けます。その功績が讃えられ、昭和3(1928)年には天皇から勅定紺綬褒章を受賞。その後も、花菱アチャコや千歳今万男などの人気芸人を、世に送り出し続けます。そしてついに昭和7(1932)年には、「吉本興業合名会社」を設立し、社長に就任します。
経営者としての才覚があったのは言うまでもありませんが、女性特有の優しさや母性もビジネスでの成功を助けました。たとえば、芸人が体調を崩せば、せいはつきっきりで看病をし、家族のように愛情を注いだといいます。それだけではなく、日本赤十字社や婦人団体などに寄付をするなど、各方面に支援を行い、大阪府からも表彰状を与えられたのでした。
多くの家族を亡くしながらも、芸人を愛し、せいは吉本興業というブランドを確立していきました。今日、私たちを笑わせてくれる芸人たちの活躍は、一人の女性の奮闘があったからこそだったのです。
参考文献:『女興行師 吉本せい』
おわりに
明治〜昭和初期は、開国から文明開化、また第一次世界大戦が起こるなど、まさに激動の時代でした。しかしここで紹介したように、柔軟に、ときに常識に刃向かいながら、自らの生き方を貫いていた女性もたくさんいました。彼女たちの功績こそが、女性が活躍する礎をつくったといっても、過言ではないでしょう。
働き始め、ときに道に迷うとき、あなたの背中を押すロールモデルは、すでに後ろに立っているのかもしれません。足下だけではなく遠い過去にも目を向ければ、彼女たちの生き方から勇気をもらえることがあるはずです。
ライター:平賀 妙子
1989年、三重県生まれ。広告代理店勤務を経て、ライターへ転身。
企業のPRライティングやビジネス書の編集、IT企業のオウンドメディアの執筆などに携わっている。
普段は当たり前すぎて見逃されていることにスポットを当てて、
その魅力を伝える文章を書いていきたい。