明治時代になると文明開化により、外国の文化が驚くほどのスピードで入ってきました。この大変化は人々の生活に大きな影響を与えましたが、封建制度の崩壊は、特に江戸時代に「武士」と呼ばれた人たちに精神的、経済的に大きな打撃を与えました。ここまでが前回の話になります。
今回は、明治時代に「士族」と呼ばれるようになった元の武士たちの働き方がどのように変わっていったのかを見ていきます。
幕府滅亡により職を失った武士
明治になって幕府が滅亡したことで特に大きな影響を受けたのは武士でした。かれらの生活を左右した最も大きな出来事は、武士という階級がなくなったことです。肩書の名称も武士から「士族」へ変わりました。
武士としてのアイデンティティがなくなったことから来る精神的な打撃はもちろんですが、江戸幕府からもらっていた収入がなくなり経済的な打撃も受けました。
明治政府は最初のころ、武士の収入として、「秩禄(ちつろく)」という手当を払っていましたが、この手当の支払いが政府の歳出の30%も占めていました。そこで財源確保のため、秩禄を廃止し一時金の「金禄」に置き換えました。金禄を受け取った士族は金禄の利子で生活しなければなりませんでした。
金禄の額が大きかった士族は利子も多く生活できましたが、そうでない士族は、活路を求めて商人になるケースも多くありました。ただ「武士の商法」という言葉通り、商売の経験がなく、気位も高かったため、商売を始めてもうまく行かないことが多く、ほとんどの場合が失敗に終わりました。
失業した士族を救った「士族授産」
北海道の開拓
職をなくし商売にも失敗した士族が増えると、こうした士族たちは反乱するようになりました。反乱の対策として政府は、失業者となった士族を救うために「士族授産」という政策を展開し、士族のために新しいプロジェクトを開始したり、資金を貸付けて起業を奨励したりしました。
新しいプロジェクトの一つが、北海道の開拓事業です。
江戸末期になって、外国の船が度々来るようになると、外国勢の圧力が大きくのしかかってきました。そしてそれは、日本が他民族により侵略されるのではないかという不安につながっていきました。明治政府は外国の勢力に対抗するため、富国強兵の政策を掲げ軍事力を強めていったのです。
当時、中国地方や九州ではすでに長州藩や薩摩藩など幕末の時代から軍事的な基盤が出来上がっていましたが、北海道は蝦夷地と呼ばれ、未開の地でした。政府は、ロシアの脅威に備えるため、北海道の開拓を始めました。
まず最初に、「屯田兵」と呼ばれる開拓民を募集し、派遣しました。1874年に始まり、宮城、青森、酒田から計965人の士族が選ばれ、派遣された士族たちが防衛面の強化を担いました。その後、1890年からは平民も募集し、防衛から開拓へ重きが置かれるようになりました。
静岡県牧之原の製茶業
士族の中には、士族授産政策により貸付られた資金を使って起業した士族もいました。
主な起業分野は、外国から入ってきた新しい技術を用いた分野で、蚕糸業、製糸業、メリヤス業、マッチ製造業、製茶業、発電事業などです。こうした起業では、失敗したものも多かったのですが、成功した例としては静岡県の牧の原で始められた製茶業があります。
明治維新後、徳川慶喜に仕えた中條景昭をリーダーとした士族は慶喜が静岡に隠居するのに伴い、「精鋭隊」として徳川慶喜とともに静岡に移住しますが、版籍奉還(土地と人民を天皇に返すこと)により精鋭隊の職がなくなってしまいました。
そのため、中条景昭たちは士族をやめ自ら茶農業者と自覚し、牧之原を開拓し茶畑を作り製茶業に従事しました。開拓に使った土地は荒れ地で、水を引くのもたいへんでしたが、苦難を乗り越え、みごとに茶園を作りお茶の製造に成功しています。そのおかげで、牧之原は今でも日本で屈指のお茶の産地として知られています。
日本で初めて士族の女性を雇った富岡製糸場
明治時代の始まりは、当時の日本人に、外の世界の文明が日本の文明よりもずっと進んでいることを見せつけました。日本の産業、経済、文化面での遅れを感じ取った明治政府は、一つの政策として「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」を掲げました。
殖産興業は、西洋社会に後れを取らないように、産業を興し資本主義をとおして近代化を図っていくというもので、1870年に「工部省」が作られました。初代の省長には伊藤博文が就任し、鉱・工業の開発や交通部門の開発・管理など主にインフラストラクチャーの開発整備をすすめ、また工場も各地に建てて行きました。
民営の事業として良く知られているのが、2014年に世界遺産に登録された富岡製糸場です。富岡製糸場は1872年にフランスの技術を取り入れ創立した工場で、当時の日本の工場の模範として注目を集めたところでした。
ユニークなのが士族の娘をたくさん雇っていたことで、これも、四民平等の政策に影響を受け、それまで社会に出て働くということのなかった士族の娘が工女として働くようになったということで、働き方の大きな変化として考えられています。
その時の様子をつづった「富岡日記」は一工女であった信州松本出身の和田英による日記ですが、その中で特に注目を引くのが、わずか15歳という若さで富岡製糸場に行くことを決めた筆者の心意気です。故郷を出るときに親兄弟から言われたのが「お国のために尽くしなさい」という言葉で、その言葉を忠実に守り、わずか1年で製糸技術を身につけ故郷に戻って他の工女を指導しました。この時代の人々が情熱をもって仕事をライフワークとしていた様子がわかりますね。
まとめ
封建時代の江戸から、近代資本主義の始まった明治への大変化のなかで、最も影響を受けたのが武士(士族)でした。江戸時代では藩主に仕える身分でしたが、明治時代では新しい仕事へ転業しなければならないという身分に一変してしまいました。そうした変化に対応できず落伍していった士族も多くいた中で、機会をとらえて成功した士族もいました。激動の新しい時代を生き抜くにはどんなことが必要なのかを考えさせられます。
記事制作/setsukotruong
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