低賃金、長時間労働、年次有給休暇未消化、作業環境の悪化などの労使問題は、程度の差があるにしても、雇用があるところ、必ずと言ってよいほど発生します。
今回は、そうした労使問題に焦点を当て、労働運動がどのような変遷を経てきたのか、そしてその結果、人々の働き方がどのように変わって来たのか、更に今後どのような方向に向かっていくのかを探ってみたいと思います。

日本で初めて起こった労働運動

日本の労働史の中で最初に起こった労働運動は、1886年に甲府の雨宮製糸工場でのストライキだと言われています。
当時雨宮製糸場では、甲府の農村部から女性の働き手を集め工女として雇っていました。労働時間は朝の4時から夜の7時まで。休憩を入れてもなんと1日14時間20分の労働だったのです。土日も出勤し、休みは盆と正月だけと言う厳しさ。しかも当時はまだ、労働組合のようなものはありませんでしたから、不満なときは、別の製糸場に仕事を変えることぐらいしかできませんでした。

それに対し製糸場側は、地域の他の製糸場の経営者を集め組合を作り、勝手にやめた工女は他の製糸場では雇わない取り決めをしました。これを不満とした雨宮製糸場の工女約100人が仕事を放棄して近くのお寺に立てこもったのです。最終的には雇用側は譲歩し、出勤時間を遅くすることで合意に達しました。

正式な労働法の設立

製糸工場で起きたストライキは一つの例ですが、しっかりした労働法がなかった明治、大正、昭和の初期は、不当な働き方を強いられる場合がほとんどでした。現在施行されている労働法は第2次世界大戦後、日本を占領したアメリカ軍が日本を民主化した時に導入されたものです。労働法は「労働三法」と言われ、次の3つの法律から成り立っています。
労働者が組合を作り団結することができる「労働組合法」、労働争議(斡旋、調停、仲裁)の調整方法や争議行為を制限する「労働関係調整法」、男女同一賃金や8時間労働制度、年次有給休暇などの労働条件を規定する「労働基準法」。

労働三法の制定により、それまで、労働運動などを起こして投獄されていた労働運動の指導者や共産党員が釈放され、1948年には組合に加入した労働者の数が660万人になり、組合の組織率も50%に達しました。こうして、やっと労働者の基本的な権利が守られるようになり、労働運動が盛り上がっていきました。

高度経済成長と公害問題

高度経済成長は、1955年頃から始まり1975年ごろまで続いた急速な経済の発展期です。特に機械工業が発達し、各家庭でも電化製品や自動車などの耐久消費財の購入が進み、生活も豊かになっていった時代でした。アジア初のオリンピックが開かれ、新幹線が開通したのもこの時期で、華やかなイメージがありますが、その反面、「公害」という悲しい現実にも直面することにもなります。

この時期に訴訟問題にまで展開した大きな公害には、熊本県水俣市で発生した水銀中毒「水俣病」、四日市の石油コンビナートから出された煙による「四日市ぜんそく」、放流されたカドニウムによる「富山のイタイイタイ病」、そして「新潟の水俣病」の4つの公害訴訟があります。いずれのケースも会社側がその非を認め、全面勝訴で解決しています。

バブル経済の崩壊と働き方の変化

高度経済成長、そして経済大国の時代を経てバブル経済へと進んだ日本は、バブル経済が弾けた1990年あたりから、深刻な不景気の時代を迎えることになります。
この経済危機を乗り越えるために「労働者派遣法」が改正され、派遣できる業務がこれまでの約2倍の26業務へと拡大し、一気に規制緩和が進みました。ここから、正社員、非正社員という2つの異なる働き方が生まれ、労働条件などの格差が発生するようになりました。2008年の年末から2009年の年頭にかけて、多くの派遣社員が急に契約を解除されたため、年越しができないということで、有志があつまり「年越し派遣村」を設立し、約500人の失業者に仮の住居を提供しました。

現在でも、派遣社員は「ワーキングプア」と言われ、低賃金化、長時間労働、過労死などの問題に直面し、このように労働形態が不安定なため、多くの若者が結婚や出産に踏み切れず、それが少子化問題の原因にもなっています。
ただ、もし「労働者派遣法」が制定されていなかったら、経営困難に陥って潰れてしまった企業も、もっとあったのではないでしょうか。例えばオーストラリアでは、労働組合が強いので、労働条件は日本よりもずっと良いのですが、近年発展目覚ましい東南アジアの低賃金労働者に打ち勝つことができず、これまでオーストラリアで50年以上続いた自動車産業の製造部門が今年いっぱいで、すべて閉鎖されることになってしまったのです。

まとめ

明治の産業革命の時期に製糸場の女工によるストライキにより始まった日本の労働運動は、第2次大戦後、民主化により労働者の基本的な権利が確立されました。平成に入りバブルがはじけると不景気になり「労働者派遣法」が緩和され、働き方はそれ以前の旧体制へ戻った形になってしまいました。
ただ、現在の経済状態は、経営者側にとっても厳しい側面があります。労働者派遣法の緩和は、価格競争で生き残るために仕方なく取った手段なのかもしれません。

労働者の権利を守り、少子化の問題を解決し、しかもより多くの企業が生き残れるために、日本では今、新しい働き方の模索が始まっているのです。

記事制作/setsukotruong

ノマドジャーナル編集部
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