前回の記事では、明治の産業革命が働き方に与えた影響についてお伝えしました。ではその産業革命後、日本の歴史はどのように展開していったのでしょうか。そして、人々の働き方はどのように変わっていったのでしょうか。今回は、大正から昭和の後半にかけて、人々の生活に大きな影響を与えた大きな出来事に焦点をあて、働き方の変遷をたどってみたいと思います。

第1次世界大戦の参戦を機に、更に軍事力強化

明治時代後半から大正時代にかけて、日本は、産業革命の目的であった「富国強兵」を徐々に強めていきました。当時世界は植民地時代で、イギリス、フランス、スペイン、オランダ、ドイツなど列国が競って自国の勢力を広げアジアやアフリカの諸国を植民地化していました。
勢力を拡大するときには結果として、植民地を争奪することになるため植民地主義者同士がぶつかり戦争が起こります。

そのようにして大正時代に起こった戦争が第1次世界大戦(1914 ~1918)ですが、大戦の後半ではしだいに、ロシアで成立した共産主義政府「ソビエト」とのイデオロギーの戦いへと変わっていきました。
日本は、イギリスとの同盟の関係で参戦しましたが、その機をとらえ、それまでに築き上げた「強兵」を活用し、韓国、中国、シベリアなどへ出兵し、更に勢力拡大を図っていきました。

軍国主義により第2次世界大戦始まる

第1次世界大戦はドイツが休戦協定に調印し終戦となりましたが、終戦後、世界的に平和を願う気運が起こり、日本もその影響で一時的に軍事力の縮小を行いました。しかし、軍部の台頭を抑えることができず、当時自由立憲を掲げていた犬養首相が昭和7年(1932)に海軍の青年将校に暗殺されたことをきっかけに、日本は再び軍国主義の国になってしまいました。

当時、世界的にも軍国主義が広まっており、ついに1939年、ドイツのヒトラー率いるナチス党がポーランドに侵攻したことで第2次世界大戦が勃発しました。この大戦では、日本はファシズム(全体主義、一党独裁、侵略を特徴とする主義)を基調とするドイツ、イタリアと三国同盟を組み、イギリスやアメリカなどの連合国と闘いました。

戦後導入された民主化

第2次世界大戦は連合国側の勝利に終わりました。日本は1945年に終戦を迎え、アメリカの占領下に置かれることになります。通常、戦争に負けた国は、その時から「占領」という別の苦しみが始まるのですが、日本にとって幸いだったことは、マッカーサーを司令官とするアメリカ軍が、日本に民主主義を導入してくれたことです。

この民主化に伴い、農地改革が行われ、それまで地主から土地を借り、借り賃を支払っていた「小作」と呼ばれる農民の88%が小作の身分から解放され、独立した農民になりました。また労働が民主化されると同時に労働基準法が規定され、「8時間労働」や「年次有給休暇」など最低の労働条件が決められました。労働の民主化の過程においては労働組合法労働関係調整法の制定もあり、労働者は組合を結成できるようになり、雇用者側と交渉もできるようになりました。

高度経済成長時代の花形産業

戦後の民主化のおかげで、日本は平和の国となり、それまで軍事費に使っていたお金が国民のために使われるようになったため、経済が発展しました。こうして日本は、1955年あたりから「高度経済成長」時代を迎えます。
明治の産業革命では、繊維・金属工業が大きな比重を占めていましたが、高度経済成長では、機械産業が花形産業でした。全産業における機械産業の比率は1955年が14.7%だったのに対し、高度経済成長の終盤である1970年には、32.3%にまで延びています。

機械産業の中でも、特に大きな役割を果たしたのが電化製品や自動車などの製造業でした。当時は、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、車などが、次から次へと販売され、どこの家庭でも、先を争って製品を購入したものでした。当時の人々は、国民の生活が豊かになっていき、経済が動いていることを肌で感じ取ることができたでしょう。

高度経済成長による働き方の変化

それほど製造業の発展は目まぐるしかったのですが、その分、工場労働者や技術員が不足し、政府は、その対策に追われました。政府が実施した解決策は、工場労働者に関しては、中卒者や高卒者を多く採用することでした。
具体的には、地方の農家の中・高卒者を集団で東京などの都市の企業に雇い入れる「集団就職」が始まり、そうした若者たちは、「金の卵」ともてはやされました。

その一方で、地方の農家は、人手が少なくなり、農業だけではやっていけなくなったため、農家の担い手(主に中年の男性)は別の仕事を探さなければいけなくなりました。ここで、家に残った「じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん」の3人が従事する「三ちゃん農業」が生まれたのです。明治の産業革命でも似たような現象が起きているのですが、当時はまだ封建時代だったので、少なくとも長男は農家に残り跡を継いでいました。昭和の「集団就職」では、長男でさえも農業を離れてしまったわけです。

「年功序列」「長期雇用」はこうして始まった

技術員に関しては、1961年から1964年にかけて、理工系学生を2万人増やし、また大学院生も増員しました。更には、5年間就学する工業高等専門学校を各地に設立し、大学へ行かなくても技術員として就職できる制度も制定しました。

大学や専門学校卒業後、各企業に就職した技術員は、職場でその企業独特の技術を学ぶことになります(OJT)。そこで習得した技術は、知識と経験が豊かな古参技術員から、若手の技術員へ受け継がれていくことになり、ここに「年功序列」の制度が生まれました。
また、技術は企業独自のものですから、他の企業に移ってもあまり役に立たないことが多く、一度入社した企業で一生働くという「長期雇用」制度が定着しました。これに拍車をかけたのが「企業組合」です。これは会社が作った組合に全従業員を加盟させ、従業員の連帯感を強化する役割を果たしました。

高度経済成長の弊害

高度経済成長により、働き方が変わり、国民の生活は豊かになりましたが、その一方で製品の需要が急激に増え、それに追いつくため、長時間労働やサービス残業などの問題が生まれました。さらに悪いことには、生産から排出される廃棄物の処理が不十分だったため、大気汚染や河川の汚染など、多くの公害問題が発生しました。水俣病、いたいいたい病などにみられるように、人体への悪影響にも計り知れないものがありました。
こうした労働と環境の問題については、また別の機会に触れたいと思います。

まとめ

大正、昭和と日本は大きな戦争を2つも経験しました。第2次世界大戦では、東京大空襲、広島・長崎への原爆投下、そして沖縄戦闘などで甚大な被害を受け、多くの人が負傷し、亡くなりました。それにもかかわらず、日本は戦後わずか10年で高度経済成長期に入り、20年足らずで、アジアで初めてオリンピックを開催できるまでに復興しました。日本は民主化され、働き方が変わり、国民の生活は豊かになりました。

ただ、その一方で高度経済成長の副次産物として労働の問題や環境の問題が派生しました。明治時代の産業革命の時にも労働問題が起きたのですが、高度経済成長では、更に公害の問題も発生したのです。

記事制作/setsukotruong

ノマドジャーナル編集部
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