明治維新により近代化への道を歩み始めた日本は「後進性の優位」を活かして、すでに欧米で開発されていた技術を導入し、比較的簡単に産業革命を起こすことができました。今回は明治初期の殖産興業を経て、明治後期から大正にかけて起こった産業革命が人々の働き方にどのような影響を与えたのか見ていきたいと思います。

富国強兵を支えた鉄道の整備と産業革命

明治も後半になると、日清戦争、日露戦争、韓国併合など近隣諸国との争いが絶えなくなり、明治政府は「富国強兵」のスローガンの下、国力を高め、兵力を強化する必要に迫られました。そのためには重工業の発達が必須でしたが、日本にとって幸いだったことは、欧米ですでに産業革命が起きており、必要な技術が整っていたことです。これを「後進性の優位」と言い、明治政府は海外の技術をすぐに導入し重工業の発展に力を入れることができました。この産業革命で重要な役割を果たしたのが鉄道の整備です。

日本で初めて鉄道が開通したのは、1972年で、区間は新橋駅・横浜駅(現在の桜木町駅)間でした。鉄道の建設にはイギリスの指導を受け、蒸気機関車もイギリスから輸入しました。
初期の鉄道はすべて官営でしたが、1877年に西南戦争(西郷隆盛を中心とする反乱)が起こると、政府の財政が苦しくなり、鉄道の建設が中断されるようになりました。対応策として、政府は半官半民の会社「日本鉄道」を創設し、鉄道の建設を進めました。これをきっかけに、外国資本を含む私鉄会社が増え、1906年にふたたび政府が買い取るまで、日本の鉄道は私鉄の時代が続きました。

鉄道の国有化が産業革命を促進

1906年に再度鉄道を国有化したのは、路線間の物流の便を向上し、それによって物資の運搬をより効率よくすることが最終的には富国強兵に結び付くと考えたからでした。また鉄道の経営から外国資本を排除すれば、外国に軍事上の輸送状況を知られないで済むという理由もあったようです。
このように鉄道が国有化されたことにより、物流が改善され、日本各地に重工業の工場が作られ始めました。日本製鋼所(室蘭)、釜石製鉄所、池貝鉄工所、横須賀海軍工廠、川崎造船所、八幡製鉄所、三菱造船所などが、主な工場です。

この中で特によく知られているのが、日清戦争の賠償金で建設された八幡製鉄所です。八幡製鉄所では、中国から輸入した鉄鉱石と九州筑豊炭田の石炭を使って、日本国内の製鉄、鋼材の80%が生産されていました。生産された製鉄や鋼材は造船所や軍需工場に運ばれ「強兵」のための準備に使われていったのです。

重工業を支えた労働階級の形成

産業革命では鉄道が整い、重工業が発達し、国力が上がりましたが、それに伴い人々の生活や働き方にも変化が現われ始めました。

基本的に明治・大正の重工業の内、鉱業、土木建築、交通業などの重筋(じゅうきん)労働を支えたのは、農家出身の男性の労働者でした。農家では通常は長男が跡を継ぎますが、次男以下の男の子供は農家を継げないため、農業以外の仕事を探す必要がありました。その意味では、重工業が盛んになったことで働き口が創出され、農家にとってはある意味救いでした。ただし、重筋労働は、20歳以下ではまだ身体的に成熟しておらず対応できないことが多かったため、20歳以上の成人の男性が雇用の対象になりました。

これに対し、重工業内の工業部門には異なった特徴がみられました。工業部門では重筋労働よりも職人的な労働が必要とされます。職人になるには技能訓練が必要で、10代後半の男性がこの訓練に選ばれ、訓練が終わった時点で、各工場に雇われていきました。ここでは農家よりも、東京などの都市出身者がほとんどでした。また、明治も終盤に入った1890年頃には、教育制度も整うようになったため、高等教育、更には大学を終わった者が、公務員や民間企業の職員として雇われるようになり、この辺りから「学歴社会」が始まりました。

急速な産業発展のしわ寄せとは?

産業革命が人々の生活に与えたもう一つの側面は、労働問題でした。産業が急速に発達するのは、それだけ需要が多いということになりますから、経営者側は需要に間に合うよう、労働者へ負担をかけます。長時間労働、低賃金、労働環境の悪化など生産量増加のしわ寄せが出てきてしまったのです。現在も長時間労働は問題になっていますが、明治・大正の産業革命も例外ではありませんでした。

当時の様子を表す資料として、ジャーナリストだった横山源之助が書いた「日本の下層社会」という本があります。この中には次のようなくだりがあります。
「労働者は1日13~16時間の労働で、かろうじて50~60銭の賃金を得ている。1日に70銭以上の収入がなければ家族を支えられない。」
これに対し、ある工場経営者が当時の政府機関であった「農商務省」に出した意見書には、「1日15~17時間の労働で会社は維持できているのです。10時間労働にしたなら、会社はつぶれてしまいます」と書かれています。
※引用元 「図鑑 日本史通覧」(帝国書院)
明治・大正と経済力がまだまだ低かった日本では、経営する側も働く側も厳しい状況の中で生活していたことがわかります。

まとめ

明治後期から大正にかけて起こった産業革命。「後進性の優位」により、イギリスなどの外国から技術を導入することにより、それほど苦労しなくとも産業革命を進めることができました。その一方で、働き方の面では、長時間労働、低賃金などの労働問題を起こすことになり、また、働き方の形態も重筋労働、技能労働、管理職などの格差が表れ始めたのもこの頃でした。

記事制作/setsukotruong

ノマドジャーナル編集部
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