博報堂での8年間の経験を生かした広告プランニング・プロデュースを行ないながら、社会活動家として知られる高田佳岳氏。東北と東京を行き来し、日本の「海」の価値を再発見しつづける同氏はまさにビジネスノマドと呼ぶにふさわしい。

今回は、「鎮魂と復興の祈りを込めた花火を」を理念に毎年8月11日に東北で花火を打ち上げる活動「LIGHT UP NIPPON」のお話から、広告業界出身ならではの価値の作り方、働き方を伺った。

被災地支援からはじまった広告プロデュース業

Q:現在の活動内容を教えてください。

高田 佳岳さん(以下、高田):

まずは、「LIGHT UP NIPPON」があります。

この間8月11日に5回目が終わったのですが、震災の年から「鎮魂と復興の花火大会」といって、8月11日の夜7時に沿岸の被災地全10カ所以上、今年は13カ所で一斉に花火をあげるという活動をしています。8月11日というのは、東日本大震災があった3月11日の月命日ということで設定しています。

現在もライフワークとして続けていて、これは率直に言えばビジネスとはまったく関係なく、気持ちだけでやっている活動です。

それと別に、自分が生きるための仕事として、株式会社ハレを2015年1月に立ち上げました。ここでは、大きく三つ自分の中でやろうと決めている事業があります。

広告業を実際に始めるようになった一番のきっかけは、花火の準備や打ち上げで東北に行くようになったことです。

震災から何年も経って、現地の人たちのステージがどんどん変わっていってるんですね。最初は生きるために必死だったけど、自分たちの仕事を取り戻して魚屋を復活させたり、水産加工業で新しい商品を作ったりするようになってきたんです。作った商品のブランディングというと偉そうですが、元々あった彼らの想いを吸い上げてあげて、デザインやグッズ制作、パンフレット制作まで、「伝える」ことをめざして広告業をスタートさせました。

東北が潤う仕組みづくり。

高田:

2つ目の事業は、フェアトレードの実践です。

東北には、魚屋や水産加工業など、一次産業に携わる人がとても多く、非常に頑張っていらっしゃるんですね。かたや僕らが東京で生活していると、彼らが100円で売ったものが東京にくると1000円で消費される。これは当たり前かもしれないけれども、さすがに差がありすぎないか、と。遠くの国とのフェアトレードは話題になるのに、日本国内でのフェアトレードはほとんど意識されない。ここに疑問を持ち、直接的に東北の人がもっと潤うような仕組みをつくりたいと考えたんですね。

僕も元々は、東京水産大学を出ていて水産に強かったので、大学の人脈と広告業で培った頭の使い方を上手く掛け合わせながら、東北の漁師や一次生産者が持っている商品を東京で直接販売する卸の仕事をしています。

3つめは、「海の学校」。子供たちに海洋教育をしようというコンセプトで準備を進めています。自分の子供が4歳で、そこに保育園の同級生の子たちが10数人いるんですが、その子たちを海に連れていって海遊びを教えています。

子供にはとにかく、きっかけを与えてあげたいと考えています。単純な海遊びのなかにも、生きるための知恵とかアイデアがあり、想像力を働かせていく。

「モノを考えよう」とよく言われますけど、考えているだけじゃダメ。考えている先に感じるモノがあって、考えることと感じることの両側を、海というフィールドで行き来して、どんどん体を使って覚えていってもらえたらいいんです。その経験は、大人になったときに発想力のスイッチというかたちで必ず発揮されますから。

まだ開発中ではありますが、来年には教育プログラムとしてちゃんと作って、提供できるようになりたいと思っています。

Q:LIGHT UP NIPPONを始めるまでのご経歴をお話しください。

高田:

東京水産大学を出て、そのあと東京大学の大学院にいって、海の哺乳類の勉強、海洋環境汚染の勉強など、ずっと海のことしかやってきませんでした。

大学院を卒業してダイビングのインストラクターになったのですが、そこでのサービス業のノウハウをもとに、「ちょっと社会の勉強をしたほうがいいかな」と、博報堂に入社しました。

最初に配属されたのは営業部でした。もともと専門分野が海だったため、、できれば水産系の会社の担当に、と言っていたのですが、任されたのはキリンビール。そのうちウィスキーを扱う洋酒のチームに配属されました。派手なテレビ広告は一切なく、地道に一つひとつお店をまわって営業をかけるようなトラディッショナルな営業をしないといけない商品でした。

僕は、営業マンたちが営業しやすいよう、武器になる営業ツールを作ったり、営業マンがお店を巻き込みやすいキャンペーンを一年目からずっと仕掛けていました。

ウィスキーから不動産へ

高田:

そして、今度は三井不動産の担当に変わりました。商品があまりに変わるのでどうやって売るのだろうと思っていたら、主な仕事になったのは地元との関係づくり。

周辺の街全体のお祭りを盛り上げたり、なくなりそうなお祭りを復活させたり、またはワークショップなどのコンテンツイベントなどを街の人たちと一緒にやったり。一緒にやっていた地元の人たちから少しずつ理解を得ながら、いよいよ建つ段階になると、「いいものができるなら頑張りなよ」と愛されるようになっている。そういう仕事をしていました。

「地熱」を上げる。

高田:

「地熱を上げる」と彼らは言うのですが、広告代理店としてその土地と共に盛り上げていく活動をしていたんですね。

マンション営業とは違い、もっとダイレクトに人と話しながら、三井のレピュテーションを下げることなく、かつ街のことを真剣に考えてもらい、街がどうやったら素晴らしい街になるかを日々話していくのです。その中で、こんなことやったら面白いですね、それは面白いやろうやろう、と言ってもらえるものをイベントとして作りながら盛り上げていきました。

こうして僕は、コレド室町のコンセプトワーキングから、日本橋の「地熱」を上げる活動まで、営業5年目にしては絶対にできない仕事を全部経験させてもらえました。商業施設が出来上がる前から、どういう施設を建てるかというコンセプトワーキング、テナントリーシング用のパンフレット制作やテナントに入ってもらう社長さんへのプレゼン作りなど、商業施設が出来上がるまでの全てをゼロから見届けることができました。

広告会社で僕が身につけたスキルって、本当にお客さんにぴったりくっついている地べたの販促プロモーションと、街全体を巻き込むようなお祭りごと、この両輪だといえます。

東北支援を始めたときも、世の中でメジャーにならないとお金は集まってこないし、かたや現地に入ると目の前で笑ってくれるようなモノを作らないといけない。そのときに、ちょうどこの販促プロモーションと「地熱」を上げる力がぴったりはまったんですね。

パラレルキャリアから、独立へ

Q:LIGHT UP NIPPONを始めたとき、博報堂にいらっしゃいました。ダブルワーク状態だったと思いますが、会社の理解はどうでしたか?

高田:

理解はされなかったです。「金にならないなら、会社としてはできない」と。広告会社で広告業をやっていたら、これは競合なので職務規定違反です。

もともと最初は、個人でやれと放り投げてくれたので、僕はLIGHT UP NIPPONを個人でスタートして、違反だと知らずに、いいところまで来ていたんです。資金が一千万円位まで集まったところで、何をやっているんだと会社に呼び出されたんです。

でも、一千万円も集まって、結構有名な会社も集まっているから、会社もほうっておけない。じゃ、会社としてやるか、となったけど、その時点でいわれてもダメなんですよ。なぜなら、高田佳岳個人だから一緒にやるといってくれている仲間なわけで、この10人じゃないとできないんです。博報堂のスタッフを使わないというのは、会社としては当然認めてくれないですよね。

そうなれば当然、会社を辞めるのか、プロジェクトを会社でやるのかということになりました。「だったら会社を辞めます」と決めたのが、2011年6月ですね。結局、クビにはなりませんでしたけど(笑)。

Q:途中、途中、パラレルキャリア(ダブルワーク)状態だったと思うのですが、当時はどういったスタンスで仕事に臨まれていましたか?

高田:

当時気づいたのが、たいていのことでは日本の会社はクビにならないんだなという感触ですね。LIGHT UP NIPPONを始めた時も、僕が会社の仕事を一切投げ打ったわけではなく、三井不動産の仕事もがっちりやっていたんですね。むしろ、そのときのフロントの担当を仲間にしていたから、その人達とすごく仲良くなって、仕事は好転していく。協賛企業を集めないといけないから、当然業務時間内に食い込んでくるけど、僕はやらないといけない仕事は1.5倍やって、時間のマネジメントはきちんとやって、週末には東北に行くような状態でした。会社も、やるべきことをやっていれば認めてくれるんですね。

Q:パラレルワークを経験された立場からお話しいただきたいのですが、現在、二枚目の名刺と言われるように、会社員が本業以外で活動することが認められつつあります。そういった活動について、どうお考えですか。

高田:

とても必要だと思います。仕事に熱中していると、小さな世界でまとまってしまって、インプットの時間が取れなくなってしまうんですね。僕もLIGHT UP NIPPONをやるまではなんの疑いもなく本業だけやっていましたけど、他のことに挑戦して自分を拡げることって実は当たり前で、それを忘れがちなのってもったいない。時間のマネジメントは難しいかもしれませんが、うまく両立すれば視野も広がるし、人脈も広がる。それはいつか、仕事にも活かしていけると感じています。

Q:2011年の震災がなかったら、今のキャリアはなかったでしょうか。

高田:

震災がなかったら、多分今頃のほほんと広告代理店で仕事をまわして胡坐をかいていたと思います。なぜ会社を辞めたかというと、東北のために何かをしたいというよりは、「生きる時間が明日なくなるかもしれない」ということがあの震災でわかって、お金よりも時間のほうが大切だと思うようになったんですね。

東北の、とある水産会社の方が言った名言があって。

私がその方の飲み会に呼ばれたとき、「平日はきついっすよ。仕事っすよー」といったら、「大変だね、サラリーマンは。俺たちはいいぞ。365日仕事だけど、365日休みだから。お前にはこの楽しみ、わからないだろうな。早くこっちに来なよ」と言われて、その言葉がすごい気になってて。

やることをきっちりやって、働くときは働いて休むときは休めばいいじゃないか!と思って辞めたら、今度は「サラリーマンなんて辞めちゃいけないじゃないか」と言われてびっくりしましたけど(笑)。でも、今、その人の牡蠣やホタテ貝は僕のメインの商材になっていて、彼の牡蠣を一番売っているんじゃないでしょうか。不思議なものですね。

広告の仕事は真のWin-Winをつくれる

Q:最後に、高田さんの今後の展望をお聞かせください。

高田:

3つの事業のなかで、広告の仕事が自分に一番わかりやすいし、お客さんも多分喜びやすい部分が多いんですね。

真面目に広告をやると、本当にWin-Winになれる。だって、本当にいい商品を持っている人がそれだけでは売れない世の中で、売り方や見せ方を知っている僕がいて、それで手に取ってくれた人が喜んでくれたらすごくいいと思って。

代理店だとコミットしないことも仕事の一部で、商品の売り上げまでコミットしていたら代理店の立場では成り立たなくなる可能性がある。それは、フリーで、ひとりでやっているからできること。本当に一緒になって売り上げを立てるところまでやってみませんかと言えるのは、僕の強みなんじゃないかと。その過程の中で、自信のある魚を売っていけることもできたらと思っています。

取材・記事作成/早野 龍輝
撮影/加藤 静

【専門家】高田佳岳氏
株式会社ハレ代表取締役、一般社団法人LIGHT UP NIPPON 代表理事。

1977東京都生まれ。東京水産大学、ダイビングのインストラクターを経て、東京大学大学院に合格。大気海洋研究所国際沿岸海洋研究センター〈岩手県大槌町〉に所属し、ロシア北極圏に渡航。卒業後、博報堂に就職、キリンビールと三井不動産の担当を合計8年間務める。2011年、東日本大震災の直後、東京湾大華火祭の中止が発表されたことを受け、「LIGHT UP NIPPON」をスタート。2015年、広告プロデュース、プランニングを主とした株式会社ハレを創業、代表取締役に就任。
著書に、第1回の活動の記録を追ったドキュメンタリー『LIGHT UP NIPPON ~被災地の空に花を咲かせた日』、また、記録映画として、「LIGHT UP NIPPON ~日本を照らした、奇跡の花火~」がある。
ノマドジャーナル編集部
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