誰でも知っている緑の十字の入った「安全第一」の看板。今では危険が伴う職場に行けばどこにでもかけてありますね。でも、「安全第一」の考え方が取り入れられたのは、わずか100年位前のことだったのです。
職場の重要度で3番目だった「安全」
19世紀に欧米で起こった産業革命によって、多くの職場で機械の導入が始まり、労働者が危険を伴った作業に晒されるようになりました。この頃から、職場の災害が急激に増えました。
その中には、工場の機械のベルトに腕を挟まれもぎ取られ、足も膝までケガをした16歳の少年の話などが当時の災害のひどさを示す例として伝えられています。
このような悲惨な労働現場の状況に心を痛めたのがアメリカの鉄鋼会社の社長、エルバート・ゲーリーでした。ゲーリーは、その解決策として、「安全第一」を提案したのです。
それまでは、第一が生産、第二が品質、そして安全は第三という時代が長く続いていたのです。安全が生産や品質よりも軽んじられていたのは、雇う側にとっての労働は、給料を払って買い入れたものであるから、労働者の健康と生活の状態には責任はないと考えられていたためでした。
日本における「安全第一」
安全第一の標語は、その後日本にも伝えられました。最初に使ったのは古河鉱業足尾鉱業所の所長であった小田川全之(おだがわまさゆき)で、1912年(大正元年)のことです。ただ、当時は「安全専一」という表現で使われていました。
その後、政府の逓信省管理局長だった内田嘉吉(うちだかきち)がアメリカ視察旅行で「Safety First」の標語を見つけ感銘を受けたことから、帰国後1917年(大正6年)に「安全第一協会」を設立しました。安全第一協会は、機関紙「安全第一」の発行、緑十字マークの採用、全国安全週間の開始、そして産業安全衛生展覧会の開催などの活動を通して、「安全第一」の考え方を日本国内に広めて行きました。
戦争で停滞し、戦後復帰した安全運動
安全第一協会の設立で、軌道に乗ったかのように見えた労働現場の安全運動も、昭和12年に日中戦争が始まり、後に第2次世界大戦へと発展していく中で停滞状態となり、再び活発化するのは戦後になるのを待たなければいけませんでした。
しかも戦後は、戦争で痛めつけられた国土の復興で忙しく、労働の安全運動もすぐには再開できず、戦後22年たった1972年(昭和47年)にやっと「労働安全衛生法」が規定されました。この法律の内容は、以前は労働基準法の中に含まれていましたが、社会の状況に合わせて修正・追加など手を加えやすくするために、労働安全衛生法として独立させたものです。
労働現場の実情
さて、これまでは労働における安全関係の仕組みや法律面について見てきましたが、実際の労働現場の安全はどうだったのでしょうか。
明治時代の製糸工場
明治時代の初期のころは、生糸産業が発展し、明治政府は富岡製糸場を設立し、フランス人技師を招き、士族の娘たちを雇い、製糸の技術を習得させました。富岡製糸場は官営の模範製糸工場として建てられていたこともあり、労働条件や労働環境はひどくなく、優雅な雰囲気の中で仕事をしていたという記録が残っています。
けれども、その後製糸の需要が伸び、その需要に追いつくため、製糸工場で働く工女への圧力が強まったことで、長時間労働が強いられるようになりました。それに反対して日本で初めての、しかも女性によるストライキが起こってしまったのです。このことはシリーズの第8回「労働運動の歴史、そして今後の進む道は?」と第12回「女性の働き方、女性解放の歴史」の中でも触れています。
明治時代の製糸産業では、長時間労働からくる疲労のため結核にかかり死亡する工女が多くいたことも知られています。
最も危険だった労働現場「炭鉱」
日本の労働災害の記録を見ると、炭鉱での災害が圧倒的に多くなっています。特に石炭の採掘が進んだ明治の後半から昭和にかけては、炭鉱の爆発事故や火災が頻繁に発生し、わかっているだけでも、約90年間で5500人以上の人が命を落としているのです。
当時、石炭はエネルギー源として日本の工業発展のために重要な役割を果していました。そして殖産興業の名の下、利益優先で炭鉱の開発が行われたため、炭鉱労働者は劣悪な労働環境の中で労働を強いられていました。戦後、労働安全衛生法ができてからは、炭鉱の安全対策がなされるようになり、災害は少なくなりましたが、皮肉なことにこうした安全対策は経費を要するものだったため、炭鉱の経営が振るわなくなり、日本の炭鉱は徐々に閉鎖されるようになってしまいました。
近年における安全衛生の課題
昭和の末期あたりからマスコミを賑わせている「過労死」は、日本特有な労働災害であるとも言われています。それは、欧米の先進諸国では、「過労」を感じるまで無理をして働くことがほとんどないからです。日本には労働安全衛生法という法律があるにもかかわらず、過労死のような問題が発生していますが、それは、過労死が日本人独特の「働くことを美徳とする考え方」にパワハラが重なって生まれたものだからです。
また、仕事中にケガをしたり疾病に罹ったりしても、自分の雇用に悪影響を及ぼすのではないかと心配して、災害報告をあえてしないケースも発生しています。
日本の現在の労働現場には、こうした目に見えない力の方が法律よりも威力を発揮していると言う残念な事実があります。そこに日本の労働安全衛生の課題があるように思います。
まとめ
働く上で、欠かすことのできない安全衛生。今では当たり前と考えられているこの労働の基本条件が、つい100年前までは、生産や品質よりも軽んじられていたのです。
100年の年月を経て、職場は劇的に安全な場所になりましたが、近年になり、「過労死」や災害の報告の未届けなど、目に見えない力が働く人を脅かしています。
それに対応するように提唱された「働き方改革」。その行方に期待したいと思いますが、同時に、炭鉱のように安全確保のための経費が掛かりすぎ競争力が落ち、職場が閉鎖することのないように、安全でありながら経営とのバランスの取れた職場づくりができる方策が求められているように思います。
記事制作/setsukotruong
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