エンドユーザーと印刷会社を結び、これまでにないクラウド型ネット印刷の仕組みを実現したラクスル株式会社。利根川裕太さんは、20代半ばにして共同創業者として同社の急成長を支えた人物だ。

大手企業に勤務しながら、並行してラクスル設立準備に関わるというパラレルキャリアを経て本格的に経営参画した利根川さん。インタビュー前編では、その情熱の裏側と、これまでのキャリアについてお話を伺った。

エンジニアへの挑戦は25歳。大企業を辞めてベンチャーへ本格参加

Q:利根川さんは森ビル株式会社に新卒で入社し、キャリアをスタートさせています。最初に、入社動機や当時の仕事について伺えますでしょうか?

利根川裕太(以下、利根川):

小さな頃から、「まちづくり」や「人の居場所づくり」に関わるような仕事に就きたいという思いがあったんです。就職活動の際には、日本で一番すごい街を作っているのはどの会社だろうかと考えて……。いくつか不動産会社にエントリーして、最も興味があった森ビルに入社することができました。

4年間在籍していて、最初の3年間は予算部に所属。その後の1年間はイベントスペースなどの営業を担当していました。

Q:最初のキャリアはエンジニアではなかったのですね。

利根川:

そうですね。予算部門でも営業部門でも、エンジニアの仕事とはまったく無縁で、当時はコードの基本さえ知りませんでした。

森ビルでの仕事はとても魅力的だったんですが、4年目になる頃には「新しいことに挑戦したい」という思いを持つようになりまして。社員数1000人規模の大企業に勤められていることは良いんですが、「自分が手掛けている仕事は会社全体のごく一部だ」「小さな仕事しか担当できないのではないか」とくすぶっていた時期でもありました。

そんなときに、大学時代の知り合いから偶然、ラクスル立ち上げに向けて動いていた松本(松本恭攝氏、ラクスル株式会社代表取締役)を紹介してもらって意気投合したんです。それからラクスルの立ち上げ準備に関わるようになり、初めてコードを触ってみて……。プログラムを初めて書いたのは25歳かな。やり始めて3カ月目ぐらいに、「どうやら世の中にはPHPとMySQLがあり、それがこの事業には必要そうだ」と気付いて、それもやってみて……。

Q:エンジニアへのキャリアチェンジに不安はありませんでしたか?

利根川:

うーん……ありませんでしたね(笑)。大学時代に友人がプログラミングやデータベース構築をしている姿を見ていて、「まあ自分でもできるだろうな」という、比較的軽い感覚から始めたんです。

1年後には、ラクスルでのキャリアで本格的に勝負していこうと決めました。2011年の2月頃ですね。森ビルを辞めてラクスルに正式に入り、当時誰も知らなかったところから事業を大きくしていく一員としてやってきました。

世の中にないものを生み出し、価値に変えていく喜び

Q:大企業に勤める忙しい日々の中で、松本さんを手伝おうと思ったのはなぜですか?

利根川:

ビジョンに魅力を感じたんですよ。ラクスルが創業時から掲げている「仕組みを変えれば、世界はもっとよくなる」というビジョンが好きで。

最初は小さなマンションの一室からスタートしたんですが、そんな環境から、世界を変えるために仲間を集めて古い業界を変えていくんだという姿勢に心を惹かれました。とてもチャレンジングなことを始めようとしているのも、面白いと思いましたね。

Q:「まちづくり」との共通点や、そこに抱いていた興味が松本さんとの出会いで変わった部分もあったのでしょうか?

利根川:

今、思うと「それまでにないものを作る」ことに魅力を感じて森ビルに入ったのですが、ラクスルの「まだ世の中にない仕組みを作る」という考え方とも共通しているのかもしれませんね。私自身は、世の中に認められていないものを作り、それが認められるように成長させていくことにやりがいを感じる人間で。

「こういうのをやろうぜ」「こんなことを実現しようぜ」と旗を立て、ゴールを作る作業が好きなんですよね。そういった意味では、まちづくりも新しい事業の開発も同じなんだと思います。

「この会社を大きくすることに関わっていたい」

Q:森ビルでの勤務とラクスル起業準備を1年半ほど並行されていますが、どのような生活スタイルだったのでしょうか?

利根川:

平日は朝8時に家を出て、夜は21時くらいに帰ってきて、そこからプログラムを書いたり勉強したりで、午前1時くらいに疲れ果てて寝るという日々でした(笑)。ラクスルの起業に向けて動いているメンバーには、他にも現職の会社に所属しながら手伝っている人もいたので、メンバーがしっかり集まれるのは土日が中心。土曜日に会議をすることが多かったですね。ほぼ毎日、ラクスルに関わっていました

Q:他にも兼業で関わっていた方がいらっしゃったんですね。

利根川:

最もディープに関わっていたのは私だと思いますが、他にもいましたよ。「草ベンチャー」のような感じで、わーっと集まって。後にラクスルのCTOに就任したメンバーも、最初は大学を卒業する3、4カ月前くらいから関わり、新卒で別の会社に入ってからも手伝い続けていました。

私は基本的にプログラミングを勉強しながらサイトを作ることがメインミッションで、その過程で「どの領域でどんなサイトを作ろうか」「どんなビジネスに挑戦しようか」といったことを盛んに議論しました。

Q:ラクスルへ正式に参画する際には、どのような心境の変化があったのでしょうか?

利根川:

私の場合はもともと、「自分の意思で物事を決められない、進められない」ことにものすごくストレスを感じていて。ラクスル以前に、自分の頭で考え、自分の意思で物事を進められる立場になりたかったんだと思いますね。サラリーマンには向いてないんだと思います。

ラクスルについてはずっと楽しく関わっていたんですが、この事業を一緒に伸ばしていけるだろうという確信が持てる状態になったことが大きかったですね。あとは、松本との関係が深まり相互理解が進んでいたということ、私自身がエンジニアとして自信を持てるようになったという理由もありました。「やはり自分はこの会社を大きくしていきたいな」と率直に思うようになったんです。

Q:ラクスルに本格的に参画してから苦労したことは何ですか?

利根川:

そうですね……。開発段階では「これで行けるはずだ」と思ってオープンしたサイトが、全然売れなかったときとか……。粘り強く続けていくことでお客さまが付いてくれるようになり、社内の雰囲気も良くなっていきましたが、その最初のトンネルは辛かったですね。

組織を作っていく中での苦労もありました。エンジニアが「フルタイム1人+インターン」という状態から、正社員3〜4人のチームを作っていくために何をするべきかと考えて。仕事の仕方を変えていくしかないので、最初はストレスを感じることもありました。

一方では、だんだん会社としての形が整っていく中で投資家の方にご支援いただいたり、自分より優秀なエンジニアが入社することによって学んだり、会社として使えるリソースが潤沢になったりという、非常に貴重な経験を積むこともできました。「大きくなっていく組織に身を置く時期」というのは、苦労が多い反面、個人のキャリア形成のためにとても大切なんだと思っています。



《(編集後記)》

ネットベンチャー設立に技術責任者として関わり、現在は子どもたちへのプログラミング教育普及活動にも携わっている利根川さんだが、エンジニアとしてのキャリアスタートは意外にも25歳。大企業での仕事だけに満足せず、まだ見ぬ価値を世の中に提供していきたいというバイタリティーが、新たな挑戦を成功させる原動力となっていた。

インタビュー後編では、利根川さんの経験を生かした外部企業へのコンサルティングについて、そして現在代表理事を務める一般社団法人「みんなのコード」が目指す世界について、さらにお話を伺う。

 

取材・記事作成:多田 慎介・畠山 和也

専門家:利根川 裕太

大学を卒業後、森ビル株式会社へ入社し予算部門や営業部門に勤務。並行して、ネット印刷ベンチャーとして創業に向けて動いていたラクスル株式会社の設立準備に参加。技術責任者として同社の成長を支える。2015年に一般社団法人みんなのコードを設立。代表理事として、学校現場での子どもたちへのプログラミング教育を普及させるための啓蒙活動、政策提言活動を行っている。