日本ではあまり馴染みのないハンドボール。競技人口は9万人ほどと言われていますが、ヨーロッパにはプロリーグもあり、オリンピックでも正式種目になっているなど人気の高いスポーツです。
そんなハンドボールの全日本主将として活躍していた東俊介さん。引退後は、日本ハンドボールリーグ機構のマーケティングリーダーを経て、現在は株式会社サーキュレーションで企業経営の支援を行っています。
インタビュー冒頭、「ダメだと言われるのが大嫌い、ダメだと言われないためにはうまくなるしかない。」「努力するのは自分次第だから出来る。」
東さんはハンドボール選手として成長していく過程をそんな風に語っておられました。
一方、「言われた事を頑張れる”だけ”な人が多い。それではダメだ。」アスリートには努力の才能があるという質問に対してこんな批判も飛び出しました。東俊介さんの選手時代から現在に至るまでの経緯や変化について、お聞きしました。
運動音痴だった少年時代から全日本主将に
Q:どういったきっかけでハンドボールを始めたのですか?
実は、僕自身はもともと運動はあまり得意ではなくて、本を読んだり絵を描いたりするほうが好きでした。体はもともと大きかったのですが、「運動音痴」だとバカにされていたりもしたんですよ。だからハンドボールも「一番楽そうな部活」として始めたのが最初です。
ところが、ボールを投げることだけは得意で、その上、身体も大きかったので、ハンドボールは自分でもびっくりするくらい上手くできたんです。活躍することで先生にも友達にも褒めてもらえて、そこから楽しくなってどんどんハマっていきました。
がんばって練習して、結果的に県内で一番強い高校に進学できたのですが、そしたら全くついていけませんでしたね(笑)。
その時に友達から「お前ダメだな、口ばっかりだな」みたいなことを言われたんです。 僕はダメな奴だと言われるのが一番嫌で、どうすれば見返せるのかと考えました。答えは簡単、上手くなる事なんです。上手くなるにはどうすればいいか、努力する事しかありませんよね。努力は自分次第。それに気づいてからは努力を重ねてどんどん伸びていき、高校日本代表に選ばれ、次は「本当の日の丸をつけたい」と思うようになりました。
そうして、大学から社会人、全日本と、ハンドボールを続けることができました。
Q:挫折や失敗はありましたか。
もちろん、たくさんありました。たとえば代表選考の最終合宿でチームから落ちる2名になって世界選手権の直前でフランスから帰国し、成田空港で涙した経験もあります。有名な”中東の笛”を食らって、一時期はお酒に溺れてしまったこともあります。スポーツってやるやらないの決断の連続ですし、それは失敗することもある。でも、そういった経験から挫折の乗り越え方は良くわかっています。
ハンドボールをメジャーにしたい。その一心でビジネスの世界へ
Q:引退後、現在はビジネスの場に身を置かれていますが、なぜこの道を選ばれたのでしょう?
僕の夢はハンドボールをメジャースポーツにすることです。そのために選手生活を通じて感じた様々な問題点を解決する必要がある。例えば、僕は「強いチームを作る事」にそれほど大きな価値を見出していません。というのも大学卒業後、僕は大崎電気という会社のチームに所属していました。当時は、男子も女子もハンドボールチームがあったのですが、強かった女子のチームは無くなってしまいました。
つまり、社会人リーグというのは企業スポーツなので、企業の業績次第で、強い弱いに関係なくチームがなくなってしまうこともあるんです。日本リーグ6連覇を達成したのにもかかわらず縮小になったチームもありました。このままだと「どんなに強いチームを作ってもハンドボールはメジャーにならないな」と感じていました。
Q:そこで、ビジネスを学ぶことにしたんですね。
そうですね。どれほど僕がハンドボールを好きでも、マネタイズできる仕組みを作らないと、結局はマイナースポーツのままなんです。 そこで30代半ば、2009年に引退を決断し、早稲田大学大学院のスポーツ科学研究科でスポーツマネジメントを学びました。
Q:大学院で学ぶことで、ハンドボールをメジャーにするためにはどうしたらいいか、というアイデアもいろいろ出てきたのではないでしょうか。
言いたいこともやりたいこともたくさんありました。ただ、問題を指摘するということは、業界にいる方達にとって面白いはずがなく(笑)。すぐにハンドボールに関わることは叶いませんでした。
その後、日本サッカー協会が主催する「こころのプロジェクト」に講師として参加させていただいたり、そこでのご縁から当時のトヨタ自動車の会長にもご助力いただいたりと、紆余曲折を経て、最終的にはハンドボール日本リーグに関わらせてもらえることになったんです。
Q:日本リーグでは、どのようなことをされたのでしょうか。
4年ほど携わり、初代マーケティング部長も任せていただいたのですが、なかなか上手くはいきませんでした。実は、2015 年がハンドボールリーグの40周年で、その5年後が東京オリンピック、さらに熊本で女子の世界大会もあるという、まさに千載一遇のチャンス。そこで、40周年企画をやりましょう、と協会の方に話を持ちかけたのですが、トップが出した結論は、50周年の企画を時間をかけて行うということでした。10年先送りにされたんです。
それが本当にショックで、「なんでわからないんだ」「あいつらがいるからダメなんだ」と、当時は文句ばかり言っていましたね。でもある日気付いたんです。「ダメなのは自分じゃないか」と。結局は自分に力がないからわかってもらえない訳で、仲間を作る能力も、人を説得する材料もない。そこでどうすべきか考え、会社を辞めて独立することにしました。
会社にいれば生活は安定していますし、何もしない言い訳はいくらでもあったのですが、それではなりたい自分になれない、自分の目標に届かない。力をつけるために個人事業主になって、「ビジネス」をしてみることにしたんです。
Q:独立後は、どのような事業をされていたのでしょうか。
テーピングの代理店と講演、あとは企業コンサルの特別顧問をしていました。
ただ、そのような働き方では経営の勉強にはならないのではないかと感じていました。そんな中で、独立するときにお世話になった格闘家の大山峻護さんが紹介してくださったのが、今働いているサーキュレーションの久保田雅俊代表です。久保田代表からサーキュレーションの事業内容を伺うと、様々な知見を持った人材をプロジェクト単位で活用できるというサービスで、自分のやりたいことにも繋がると感じました。
Q:人材を活用するサービスが、ご自身のやりたいことに活かせると考えたのでしょうか。
スポーツビジネスの運営には人材が足りないんです。例えばJリーグには、プロリーグ設立の立役者となった川淵さんがいます。そして今度は、バスケットボールでB.LEAGUE(プロリーグ)ができました。「できる」人がいれば変わる事はできるんです。
ですが、多くのスポーツの現場にはそういった人材はいません。どういった人たちがやっているかといえば、選手を終えた人や学校組織を母体とした人です。そこにだけいた人にはスポーツ組織をマネタイズするためのビジネススキルが無いんですね。そして何かを終えて安定している人たちなので頑張る必要も無い。
そこで必要となるのが、外部のビジネススキルを持った人材です。ただ、フルタイムで雇用するにはお金がたくさん必要なので、プロジェクト単位で週一回でも来てくれる人がいれば、と考えたわけです。そんなビジネスモデルをこの会社なら作れるんじゃないかと考えてサーキュレーションに入る事にしました。
(後編へ続く)
取材/松本 遼
撮影/宮本 雪
石川県出身。中学1年からハンドボールを始め、高校、大学、U-20などで活躍。
卒業後は大崎オーソルにてプレイを続け、チームを優勝に導く。
また、日本代表のキャプテンも務める。
2009年3月に現役引退後は、早稲田大学大学院にてスポーツマネジメントを学ぶ。
日本ハンドボール協会などを経て、2016年にサーキュレーションに入社。
京都造形芸術大学卒業後、広告制作会社を経て、2010年よりフリーランス(http://idvl.info)。
デザイナー・アートディレクターとして
雑誌広告・広報ツール・webサイトなどの制作を請け負う。
「uniqlo creative award 2007 佐藤可士和賞」、「読売広告大賞 2010 協賛賞」ほか、多数の賞を受賞。
フリーランスとして多くの企業、個人と関わった経験を生かしライターとしても活動中。
専門家と1時間相談できるサービスOpen Researchを介して、企業の課題を手軽に解決します。業界リサーチから経営相談、新規事業のブレストまで幅広い形の事例を情報発信していきます。