2002年に自由獲得枠で日本ハムへ入団し、その後移籍したDeNAソフトバンクでも気迫あふれるピッチングでファンを魅了した、元プロ野球投手の江尻慎太郎氏。現在はソフトバンク関連会社で数多くの企業へデジタルマーケティングを提案するかたわら、野球解説者としても活躍しています。

 

プロのマウンドからICTビジネスの最前線へ。その転身の背景にあった、江尻さんの「セカンドキャリア」ストーリーを伺いました。

「プロ野球選手になれるとは思っていませんでした」受験勉強をしながら壁当ての日々

Q:現役時代の江尻さんと言えば、長身から繰り出す豪快な速球や多彩な変化球が魅力でした。まずはプロ入りするまでの歩みを教えてください。

江尻慎太郎氏(以下、江尻):

仙台で野球少年として育ち、地元では古豪として有名な県立仙台第二高校へ進みました。ライバル校である仙台第一高校との「仙台一高二高定期戦」は「杜の都の早慶戦」と言われていて、そこに何としても出たかったんです。

 

当時は、プロ野球選手になれるとは思っていませんでした。高校時代の球速はマックスで137キロ。体の線が細い選手だったこともあり、周りにも私がプロになると思っていた人はいなかったと思いますね。

Q:それはとても意外です。

江尻:

仙台二高は地元の進学校でもあり、推薦を利用して慶応義塾大学へ進みたいと思っていました。実は在学中に慶応野球部の監督がわざわざ来てくれて、「ぜひ一緒にやろう」と言ってくれたんですよ。ところが評定が足りず、推薦枠に入れなかったんです。一般受験で挑戦しましたが落ちてしまいました。

 

卒業後は浪人して受験勉強を続けながら、コンビニ店員や交通量調査などのアルバイトをしていました。そのバイト先からの帰り道に、「ボールの壁当て」をするのにちょうどいい場所があったんです。浪人生の身ではロクに野球の練習をできないので、よくその場所で1人、黙々と壁当てをしていました。

Q:ということは、その期間はちゃんとした練習に参加していなかったのですか?

江尻:

そうです。浪人中はずっと、慶応野球部の応援歌のCDを聞きながら勉強していました。で、結局二浪までしたんですが、ダメでした。3回目に慶応に落ちたときは、発表の帰り道に泣きましたよ。それで早稲田へ進学したんです。

Q:大学1年生の早慶戦に登板して勝ったときに、試合後のインタビューで「慶応義塾大学、ざま見ろ」とおっしゃったのが話題になりました。あれは……。

江尻:

慶応への憧れが、屈折した感情になってしまったんでしょうね(笑)。私にインタビューしたアナウンサーがその因縁を知っていたようで、本当はちょっとした誘導質問から出てきた発言だったんですけどね。

 

浪人中にずっと壁当てをしていた成果なのか、大学に入ってからは140キロ台を出せるようになっていました。その後は全日本チームにも呼ばれ、いい経験をさせてもらいました。1年下には和田毅(現福岡ソフトバンクホークス)がいたのですが、ブルペンで見ていても当時から彼の投げる球はまったく違いましたね。大学時代は故障なども経験しましたが、ご縁があって日本ハムに入団し、37歳までプロ選手として過ごすことができました。

球団取締役からの予想外の言葉が転機に。ビジネス界への転身

Q:13年間のプロ生活を経て、2014年に現役を引退されています。当時はどのような心境でしたか?

江尻:

戦力外通告を受ける前日の夕方に、球団の編成部長から呼び出されたんです。それはホークスが日本シリーズに勝ち、日本一を決めた日でした。

 

その前から、「現役を引退してスカウトにならないか?」と言われていたんですよ。「チームの日本一が決まったら正式に呼んで話をするから」と。1日でも長く現役でいたかったから、愛する我がチームなのに負けてくれたほうが現役が延びるという複雑な思いで試合を見ていました。

Q:その頃は球団に残ろうという考えだったのですか?

江尻:

当時は、まだ迷っていました。そうしたら、その日、スカウトにならないかという話を正式にされた直後に、別の取締役からも呼び出しを受けたんです。それが「ソフトバンクの関連会社でビジネスマンとして働かないか」という話で。

 

正直なところ、ものすごく驚きました。ただ、「江尻が野球界を離れて新しいフィールドで活躍すれば、野球界における江尻の価値も高まるんだぞ」と言ってもらって……。野球界における江尻と、ビジネス界における江尻、両方のブランドを作っていけるんだと。だったら絶対にそのほうがいいと思いました。悶々としていた気持ちが晴れるような感覚でしたね。それでビジネスマンになる決意を固め、まずSPIなどの選考を受けさせてもらったんです。

Q:将来的にビジネスの世界へ進むというのは、現役時代から予想していましたか?

江尻:

どうでしょうか。球団スタッフへの転身もビジネスの世界へ入ることには変わりないでしょうから、そういう意味では予想していたかもしれません。

 

現役時代からビジネス書がすごく好きで、やたらと読んではいましたね。選手時代には仲間と一緒に会社を作ったこともありました。利益を生むような活動はできませんでしたが、スポンサーを募って、東日本大震災の被災地へAEDを送るという社会貢献事業をやっていたんです。そうした経験があったので、やると決めてからは一気に頭を切り替えることができましたね。

「結果がすべて」のプロの世界を知っているから、ビジネスでも全力を出せる

Q:野球界を離れて新たな挑戦を始めることに対して、周囲の反応はいかがでしたか?

江尻:

あたたかく応援してくれる人もいれば、批判めいた言葉を浴びせてくる人もいました。「お前は勝負の世界から離れて安定を求めるんだな」と言われたこともあります。

 

でもね、それは野球界しか知らない人の勘違いだと思うんですよ。世間に目を向ければたくさんのビジネス書が出版されていて、その中には売れまくってベストセラーになっているものもたくさんありますよね? ビジネスパーソンも、日々必死で戦っているという証じゃないですか。もしかしたら野球選手よりも広いフィールドで勝負できる世界なのかもしれない。

 

そんなことを思いながら、「戦うフィールドが変わるだけなんだ」と自分を鼓舞していました。

Q:ビジネス界への転身から2年近くが経ちますが、周囲からかけられる声は変わってきていますか?

江尻:

「野球を離れて別の世界で頑張っているのはすごい」と言ってくれる人がいます。でも自分では、それは当たり前だと思っているんです。野球は子どもの頃から30年以上やってきているわけだから、得意分野であることは間違いありません。でも別の世界に出て新しいことに挑戦するなら、不得意分野なわけですから、頑張らなきゃいけないのは当たり前じゃないかと思っています。

 

セカンドキャリアを考えるなら、別の世界でも人々を喜ばせるための努力は必須でしょう。そう考えればポジティブになれるのに、選手を引退すると途端にネガティブになってしまう人も多いです。

Q:プロ野球選手の場合は、野球界に残って球団のフロント側に入るというセカンドキャリア選択が一般的なのでしょうか?

江尻:

もちろんそういう人も多いんですが、新しい世界に飛び出して戦っている人もいますよ。

 

プロ野球は結果がすべてで、ダメだったら戦力外通告という形であっさりとクビにされる厳しい世界です。戦力外通告を受けたら、選手は生活の糧を一瞬で失ってしまうわけですよ。私にはその感覚が残っているから、ビジネスの場でも一球入魂で、本気で勝負できるんだと思います。

 

私自身が経験したことは今後、セカンドキャリアを考えるアスリートや受け入れを考える企業にどんどん伝えていきたいですね。絶対に可能性は広がっていますから。野球選手のセカンドキャリアに関する本を書きたいぐらいです。

 

後編へ続く)

 

取材・記事作成:多田 慎介

専門家:江尻 慎太郎

1977年、宮城県仙台市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。
2002年に自由獲得枠で日本ハムファイターズに入団し、8年間の在籍中に三度のリーグ優勝、一度の日本一を経験した。2010年から横浜ベイスターズ、2012年からはソフトバンクホークスで活躍し、2014年11月に現役引退。
2015年2月にソフトバンク コマース&サービスへ入社し、デジタルマーケティングツールを活用した集客強化の提案を数多くの企業に行っている。野球解説者としても活躍中。