2016年7月に行われた参議院議員選挙に自民党公認候補として出馬し、初当選を果たした朝日健太郎氏。1990年代後半から2000年代前半にかけて全日本男子バレーボールの中心選手として活躍し、その後はビーチバレー選手として二度のオリンピックに出場したトップアスリートでもあります。

 

現役引退後はNPO法人理事長を経て政界へ。さまざまなフィールドへ活躍の場を広げることができた理由はどこにあるのでしょうか。その歩みには、アスリートのセカンドキャリアを考える上での貴重なヒントが隠されていました。

 

インタビュー中編となる本稿では、朝日氏がトップアスリートへと上り詰め、大きな挫折を味わうまでのストーリーを伺います。前編では「消去法でバレーボールを始めた」という発言も。その少年時代は、意外性の連続でした。

成績優秀な息子の思わぬ選択に、両親が困惑

Q:現役時代のトップアスリートとしての華々しい戦歴を思い返すと、「消去法でバレーボールを始めた」というのは、にわかには信じられませんが……。

朝日健太郎氏(以下、朝日):

何と言うか、現状からは少し離れた場所にある選択肢を、あえてつかむような習性がありまして。

 

もともと運動能力にそこまで自信を持っていなかったので、「数あるスポーツの中で自分に合っている競技は数少ない」と感じてバレーボールを始めたんです。高校を選択したときもバレーボールのためというわけではなく、自分のやりたいことができるかどうかという軸でした。

 

実は中学時代から、勉強もしっかりできたんです(笑)。中間や期末の試験では何度か学年1位になりました。地元の熊本県にある普通の公立中学ですが、350人、10クラスぐらいある中での学年1位。それまでは学力で評価されたことは特になかったんですが、高校受験は県下でも有数の進学校を狙えるようなレベルで。

Q:それで進学校に進んだのですか?

朝日:

いえ、そこは受験しませんでした。親は困惑したと思いますけどね。「お前は何を言っているんだ、しっかり良い評価が付いているじゃないか」と。

Q:バレーボールでも実績は出されていたんですよね?

朝日:

いえ、バレーボール部の活動は比較的ゆるやかなものでした。中学時代は「涙に汗に」といった3年間でもなく、何となくやって、「皆で素晴らしいチームワークを発揮できたね。よかったね」と満足している程度だったんです。

Q:バレーボールが飛び抜けているのならともなく、そうでもないのに進学校を選択しなかった、と。それはご両親としては予想外だったでしょうね。

朝日:

はい。飛び抜けていたのは身長だけでした。当時すでに190センチを超えていたんですよ。中学時代は結果を出せなかったけど、自分の特徴を最大限生かせるのはやはりバレーボールだと思っていました。「勉強ができるから進学校へ」という選択を、何だかありきたりに感じていたのもありましたね。

 

高校に入学してからも、3年生の夏頃まで成績は上位でした。ただ、その頃にはバレーボールが中心の生活になっていたので、難関校を目指しているような同級生たちにはどんどん追い抜かれましたね。

叱るのではなく「深く考えさせる」指導のもとで成長

Q:本日は「アスリートのセカンドキャリア」というテーマでお話を伺っているのですが、予想していた少年時代の猛練習エピソードが出てこないので、少し意外に感じています……。

朝日:

その頃の苦労話はあまりないんです。徹底的に追い込まれたトレーニングの結果に勝利をつかみ取ったような経験もない。私はスポーツでは過度なプレッシャーを受けていないんですよね。

 

あくまでも自分自身で選択してスポーツを続けてきたし、過度に高い目標を設定してやみくもに走り続けるというような、若い選手にありがちなトレーニングもしていません。的確に、自分が納得できる負荷しかかけてきませんでした。

Q:それで将来的に全日本に選ばれるというのは、さらに驚きです。

朝日:

全日本代表になるために、寝る間も惜しんで練習し続けるようなことは経験していません。「とりあえずこの試合に勝とう」「とりあえず予選で勝って全国大会に出よう」と、いつも目の前のことだけに集中していました。

 

指導者に恵まれていたという事情もあります。私が育った頃、バレーボール界では厳しい指導方法が一般的でした。そんな先生に巡り合っていたら、バレーボールを続けていなかったと思います。「お前のような奴はいらない、帰れ!」なんて言われたら、「じゃ、帰ります」とコートを去っていたでしょうね(笑)。

Q:朝日さんが巡り会った先生は、どのような指導方法だったのでしょうか?

朝日:

高校時代の先生は、あまり前に出てきませんでした。遠くで見守りながら、選手を否定することなく問い掛けを続ける。強く叱られたような記憶はほとんどなく、むしろ「深く考えさせられた」という感じです。

 

そもそも「ここでミスをしたらダメだ」ということは、選手は当たり前のように認識しているんです。そこで「なぜそんなミスするんだ」「どうしてそんなプレーをするんだ」と責め立てても意味がない。先生はそんな考えだったんだと思います。ある程度自由にプレーをさせながら、選手一人ひとりに徹底的に考えさせる。そんな指導方法でした。私には合っていましたね。

キャリアとモチベーションが少しずつ乖離していく

Q:法政大学へ入学後、在学中に全日本に選ばれていますね。選手としてのキャリアが大きく前進した時期だと思いますが。

朝日:

実はここが、私の競技人生が「こんがらがってしまった」時期。大学時代に突然全日本に選ばれ、大きな喜びとともに、困惑してしまったんです。当時を思い返せば、プレッシャーが強過ぎたんだと思います。自分の思い通りにプレーができなくなる、いわゆる「イップス」になってしまったんですよ。アスリートは精神的な要因で運動障害を起こしてしまうことがあります。野球選手でいうと、ボールが投げられなくなるとか、バットが思うように振れなくなるとか。そういう状態に陥ってしまいました。

 

体自体は強くて、キャラクターが非常に評価されたこともあって全日本で使ってもらいましたが、内実はそうしたズレが起きていたんですよね。実業団へ進んでからの時期も含めて数年間、自分のキャリアとモチベーションが少しずつ乖離していく感覚を味わいました。当時は20代前半。そこで活躍する準備が整っていなかったんだと思います。

Q:今だからこそ言えることかもしれませんが、当時同じく代表に参加していた他の選手にも、似たような感覚はあったのでしょうか?

朝日:

他の選手については断定的なことは言えませんが……。バレーボール日本代表というチームに対する目標設定や意識がバラバラだった気はします。「また今年も全日本でやらなければいけないのか」という空気感が何となくありました。

 

日本代表としてオリンピックを目指すとか、世界の試合で勝とうとするのは、すごく高いレベルのことなんですね。一方、選手たちの日常は事業団スポーツのアマチュアイズムの中にある。この差を選手個人が埋めなければいけないんですよ。

 

私個人は4年ほどでパンクしてしまい、ビーチバレーに転向しました。自分がやりたいフィールドとマインドが合っていないことで疲弊し、違和感を感じていた。ビーチバレーに転向することで、その2つをすり合わせて戦えるようになりました。20代当時は、自分でも気付いていませんでしたが。

 

後編へ続く)

 

取材・記事作成:多田 慎介

専門家:朝日 健太郎

1975年、熊本県生まれ。身長199cm。
法政大学時代にはバレーボール全日本大学選手権で優勝を経験し、
在学中に全日本代表に選出される。卒業後はサントリーに所属し、Vリーグ3連覇に貢献。
2002年にインドアからビーチバレーに転向。2004年にTOKYOオープンで悲願の初優勝を遂げ、2005年2月にはジャパンツアーで年間優勝を果たす。白鳥勝浩選手とのペアでは前人未到の国内大会9連覇を成し遂げた。2008年の北京オリンピックに日本人男子として12年振りに出場し、日本ビーチバレーにとって歴史的な五輪初勝利を上げ、9位に輝く。
2012年のロンドン五輪への出場を果たした後、現役引退を表明。その後は日本のビーチバレーや港湾振興を支援するビーチ文化振興協会理事長に就任。
2016年7月の第24回参議院議員選挙に自民党公認候補として出馬し、初当選。