首都圏への人口・商業施設の集中からの脱却を図る「地方創生」が叫ばれる中、地方の企業はどのように先代からの伝統を引き継ぎながら、新たな事業展開を図っているのでしょうか?そこで、北海道札幌市に住む筆者が北海道の企業の社長や団体の代表者に「地方創生」について伺っていきます。

今回は札幌市白石区に工場・直営店を構える池田食品株式会社の池田光司社長にご登場願いました。1948(昭和23)年に池田さんの父である先代の社長が創業した会社ですが、乾物の卸問屋からスタートし創作豆の製造へとシフトしています。1997(平成9)年から現在の工場・直営店が稼働し、直近の5年間は売上も順調に推移しています。

しかしながら、池田食品は過去3度の大きな赤字に見舞われています。前編では、その3度の赤字とそこからの回復について池田社長に伺いました。


※取材当日が節分イベントだったため社員全員が鬼のかつらを被っていて、池田さんも社長自ら青鬼に扮しているタイミングでのインタビューでした。

入社前に大阪で修業してきたのが大きかった

Q:池田食品は来年開業70周年を迎えます。

池田光司氏 : (以下、池田氏)

「父が創業した会社なのですが、1970年代後半に父が病気になったこともあり、本州から戻ってきました。私が社長になったのは1984(昭和59)年なのですが、東京で食品の営業を5年ほど、大阪で豆の製造現場を2年弱経験してから戻って来て、3年間父に付きっきりで会社経営の勉強をしました。その3年間は本当に大きかったですね」

Q:池田さんが社長になられたときはどのような状況だったのですか?

池田氏 :

「父は乾物の問屋をやっていたのですが、創業してすぐにメーカーに転じます。乾物は収穫によって左右される業種なので、当時扱っていたピーナッツを使った創作豆の製造を始めました。やはり、メーカーの強さというのを感じたんだと思います。最初は千葉県の落花生を使用してピーナッツを製造していました。当時はすすきのの近くに会社があったので、すすきのの繁華街で商いが成立していたんです。それがだんだん国内産の落花生が高騰してきまして、中国からの原料に切り替えました。ところが、私が入社してすぐ…1980年代から流通革命とエイジレス(脱酸素剤)の登場で、加工技術は高くないのですが原料ではなくバターピーナッツの製品が入ってきてしまったんです。結果、私の代になってから父が3億円かけて作った設備を破棄して、私が大阪で学んできた創作豆の製造に力を入れていくことにしたんです

Q:それは凄いタイミングだったんですね。

池田氏 :

「当時は落花生を加工したピーナッツが主流だったので、創作豆はあまりやってなかったんです。入社前に大阪に修業に行っていなければ、今この会社はなかったでしょうね。そこから商品を増やしていって、今に至るという感じです。」

3度の大きな赤字を乗り越えて今がある

Q:大きな転換期を乗り越えて、今があるんですね。

池田氏 :

「以前は流通が整備されていなかったこともあり、競合は北海道内の同業種だけだったのですが、北海道も本州も関係なく流通できる時代になり本州の企業との戦いも出てきたわけです。それに対抗するためには北海道らしい商品を作らなければいけないということで、北海道産の原料を使用した商品を増やすことになりました。また私の娘が後継ぎとして入社してから、OEM(他社ブランドの製品の製造)を全部断ることにしました。10億円あった売り上げが半分になったんですが、自社ブランドだけで生きていこうと決意したんです。直営店を設けたのもその一環です」

Q:池田さんはその決断に対して反対しなかったんですか?

池田氏 :

「反対はしませんでしたが、一抹の寂しさはありました。しかし、工場で働く社員からは、どんなに忙しくても自分たちのブランドだったらやりがいがあるという声を聞いていたんです。OEMは、経営者のための業務なんですよね。社員のためには、自社ブランドを高めることで企業力を高めて、自分たちが豊かになるということが正解だと思います

Q:直営店の存在は大きいんですね。

池田氏 :

「お客様から直接意見を伺えますしね。これまで、この会社は3度大きな赤字を出しているのですが、忘れないようにと名前をつけました(笑)。中国の製品が入って来て設備を破棄したときの「中国赤字」、そこから立ち直って流通革命で本州企業との戦いになったときの「流通赤字」、そしてOEMをやめたときの「決別赤字」…赤字を乗り越えては赤字でした。父が財産を遺してくれていたのは助かりましたが、同時に仕組みを変えながら社員を引っ張っていくことができたのが大きかったですね

(後編へ続く)

取材・撮影/橋場了吾(株式会社アールアンドアール)

池田光司氏プロフィール
1949(昭和24)年、札幌市生まれ。明治大学卒業後に東京・大阪でのサラリーマン生活を経て、池田食品株式会社に入社、1984(昭和59)年に2代目の同社代表取締役社長に就任、現在に至る。

【専門家】橋場 了吾
同志社大学法学部政治学科卒業後、札幌テレビ放送株式会社へ入社。
STVラジオのディレクターを経て株式会社アールアンドアールを創立、SAPPORO MUSIC NAKED(現 REAL MUSIC NAKED)を開設。
現在までに500組以上のミュージシャンにインタビューを実施。
北海道観光マスター資格保持者、ニュース・観光サイトやコンテンツマーケティングのライティングも行う。

ノマドジャーナル編集部
専門家と1時間相談できるサービスOpen Researchを介して、企業の課題を手軽に解決します。業界リサーチから経営相談、新規事業のブレストまで幅広い形の事例を情報発信していきます。