全国に321ある労働基準監督署(労基署)は、民間企業に労働基準法を守らせる役割を担う公的機関です。監督・指導権限を有する労働基準監督官が労働者の安心・安全を守るため違法行為を監督・指導しています。

今回は長時間労働に対する労働基準監督官の取り組みとその問題点を探ってみることにします。

1. 労働基準法の番人「労働基準監督官」とは

労働条件の確保・向上のため労働基準法(労基法)違反を取り締まり、監督・指導するのが労働基準監督官です。全国で約3200人が違法行為を是正するために活動しています。

これまでお話ししてきたように、今後予定されている労基法の改正によって長時間労働は厳しく規制されるようになります。しかし、法律による規制が強まっても、直ちに長時間労働がなくなるとは思えません。なぜなら、生産性の上がらない工程、生活給としての時間外労働手当など、多くの中小企業が長時間労働につながる構造的な問題をかかえているからです。

常態化したサービス残業の見直しを求め、未払い賃金を請求したい…労働基準監督官は、そんな時、力を貸してくれる心強い存在です。規制強化によって違法な時間外労働と認定されるケースは増大し、労働基準監督官は今まで以上に忙しくなるでしょう。

2.知っておきたい「申告」と「情報提供」の違い

労働基準監督官は「定期監督」と「申告監督」によって立ち入り調査(臨検)を行い、違法行為の是正を監督・指導します。定期監督とは対象企業を任意に選んで調査する方法で、申告監督とは労働者からの通報を受けて調査する方法です。

労働者本人から違反事実が通報された場合、監督・指導が必要だと判断すれば労働基準監督官は臨検へと動きます。しかし匿名による通報は申告とは扱われず、あくまでひとつの「情報提供」として扱われます。通報したことが会社に知られると不利益な扱いを受けるかもしれない、労働者がそう思うのは当然ですが、匿名による通報によって労働基準監督官を動かすことは難しいといえます。

3.本人申告でも動けない?明確な法律違反だけが監督・指導対象

ここである事例を紹介しましょう。

B社が経営するスーパーの店長であるAさんは、店舗運営の全般を任されていました。誰よりも早く出勤して鍵を開け、閉店後に鍵をかけて帰ります。Aさんは管理職として本社の企画会議にも参加していました。一方で鮮魚担当のローテーション勤務も一部こなし、月の時間外労働は60時間を超えていましたが、時間外労働手当はありませんでした。

入社15年目の春、Aさんはファミリーレストランを経営するC社からヘッドハンティングを受け、直営店の店長として迎えられることになりました。AさんはB社に対し、これまで未払いだった時間外労働手当を請求しました。しかしB社はAさんは管理職であるとして時間外労働手当の支払いを拒否しました。そこでAさんは労基署へ出かけ、氏名を明らかにした上で時間外労働手当を支払うようB社を指導してほしいと相談したのです。

ところが応対した労働基準監督官はこう言いました。

「あなたの言いたいことはわかりましたが、会社にも言い分があると思いますので、もう一度よく話し合ってみてください」

時間外労働手当は賃金の一部分です。これを支払わないことは賃金未払いとなり労基法24条に反します。労基法違反を取り締まるのが労働基準監督官の職務だったはずです。しかしAさんの申告を受けても労働基準監督官がB社を指導することはありませんでした。いったい何が起きたのでしょうか?

労働基準監督官がAさんの事案に介入しなかった理由は2つ考えられます。

(1)証拠がなければ介入できない

労働基準監督官がB社を指導するには、Aさんの申告内容が事実かどうかを確認しなければなりません。しかしAさんは手ぶらで労基署を訪れていました。60時間を超える時間外労働をしていた、時間外労働手当は支払われていなかった、という事実を確認できなければ労基法違反を認定できません。Aさんとしては、少なくともタイムカード等の勤務時間が確認できる資料と給与明細書を持参すべきでした。

(2)労基法違反が明確といえるか

Aさんには時間外労働手当の代わりに管理職手当として月5万円が支給されていました。使用者には時間外労働手当を支払う義務がありますが管理職は除外されています(労基法41条2号)。Aさんが管理監督者であれば、時間外労働手当が支払われていなくても違法でないのです。

ところが、Aさんが管理監督者にあたるか否かは職務上の地位、経営参画の程度、労働時間の自由度など諸般の事情を考慮しなければ判断することができません。こうした場合、労働基準監督官はすぐには動きません。Aさんが管理監督者でないと認定できてはじめて労基法違反となるからです。

Aさんは証拠を持たず労基署を訪れましたが、そもそも違法行為が明らかである事案ではなかったため、仮に証拠を持参したとしても同じ答えが返ってきたことでしょう。

結局、AさんはB社を相手に訴訟を提起することにしました。Aさんが管理監督者であるか否かは、司法の場で判断されることになったのです。Aさんにとっては時間と費用面で大きな負担となりました。

一般社員がサービス残業を強いられているなど使用者の違法性が明らかなケースでは、労働基準監督官が迅速に対応できるといえます。しかし、働き方が多様化し労働条件も複雑になっている今日において、違法性が明確である事案は限られていると思います。

4.まとめ

労働基準監督官には労働者保護のため、その権限をいかんなく発揮することが求められます。しかし、法律で違法な長時間労働の対象を広げても労働基準監督官の権限が強化されなければ、単に仕事量だけが増えるだけで現場の監督官たちは不完全燃焼に終わるのではないでしょうか。

行政の権限が大きくなりすぎると人権侵害につながる危険性もあり、権限を行使する範囲の確定には慎重を要します。とはいえ労働者保護のためには、もう少し行政権限を強めてよいように思います。違法ギリギリの経営を行う使用者も少なくありません。制度改革を実効性あるものにするには、労働基準監督官をより機能させるための検討がさらに必要だと思います。

記事制作/白井龍

ノマドジャーナル編集部
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