小豆島(しょうどしま)は瀬戸内海に浮かぶ離島。人口約29000人、面積約150k㎡。瀬戸内海では淡路島に次いで2番目の大きさだ。オリーブ・醤油・そうめん・佃煮・ごま油などの生産が盛んで日本有数の名産地となっているほか、小説「二十四の瞳」の島としても知られる。近年、若者・子育て世代を中心に移住者が増加。瀬戸内国際芸術祭が開催されたり、小豆島高校野球部が甲子園出場を果たしたりと明るいニュースが多い。

 

首都圏への人口・商業施設の集中から脱却を図る「地方創生」が叫ばれる中、人気のある離島ではどのような地域づくりが行われているのだろうか?そこで、小豆島へ5年前に移住した筆者が、小豆島で活躍する企業・事業・人について取材・発信していく。

 

第4回は、映画「二十四の瞳」のロケ用オープンセットを改築し、お土産屋・映画ギャラリー・食事処など色々な施設を揃えた「二十四の瞳映画村」の有本裕幸専務理事にお話しを伺いました。前編では、映画ロケの誘致や若年層向けの企画など、映画村立て直しのための取り組みについて、詳しくお聞きしています。

 

町の外郭団体。一番大事にしているのは「自立運営」

Q:現在の事業内容を教えてください

「一般財団法人・岬の分教場保存会」という公益法人で、「二十四の瞳映画村」と「岬の分教場」という学校として活用していた場所の2か所を運営管理しています。小豆島町の外郭団体で、70%が小豆島町の出資となっています。

「二十四の瞳映画村」園内の様子

Q:良い意味で行政色が全くない施設だと感じるのですが?

自立運営を目指していて、企業として採算を成り立たせる事を意識しています。そうする事で、土地に根付いていくと考えています。実は、施設の土地は1万平方メートルあるのですが、その土地を借りたり、土地を買って新しい建物を建てたりするための投資をしていくための借り入れなども必要になってきます。そのためには、自分たちの足で立って行かないといけないんです。

 

もともとは町がやっていた施設で、映画上映があった昭和62年にオープンし、その時は沢山の方が来られて一時期はブームになっていました。しかし、全国的にも映画のロケ地というのは、時間の経過と共に作品が観られなくなっていくと、お客様が減っていきます。平成12年に、民間出身の自分が着任した時に、まずは「お客様が減った時にどうすれば社員が路頭に迷わずに済むのか。長期計画を立て、施設運営をしていかないといけない」と思いました。

ロケに使用された教室

Q:どのように映画村の立て直しをされていったのですか?

1年目は課題の洗い出しで、会計調査、仕入れ業者の見直し、労務管理、営業形態の変更などに着手しました。施設としてお客様が来ていただける魅力あるものに転換していかなければならない。そのための魅力の掘り起こしをしなければならなかったので、「二十四の瞳」の作品や、それを残す理由を勉強していきました。

 

日本映画の金字塔と言われた1950年代日本映画の黄金期の中でも、昭和29年キネマ旬報で第1位を獲得した「二十四の瞳」が、いかに多くの方々に支持をされていたか。当時、映画は娯楽で、国民の多くが貧しくて、苦しいなかでも、一生懸命生きようとしていました。戦争はダメだと言うだけでなく、お互いを思いやる気持ち(共感力)、まさに共感力・優しさがこの映画の力になっています。
それに、小豆島という美しい風景と唱歌・童謡がこの作品をより上質なものに仕上げています。この作品は日本中でたくさんの方に観て頂いていると思いますが、知らない方、とくに50歳以下のこれからの若い人達にどう伝えていくのか。それが課題でした。

 

「旅の思い出」ノートは150冊以上残されている。

映画「八日目の蝉」の誘致。企画をテレビ局や映画会社に売り込み、コラボしていく

Q:「二十四の瞳」を知らない世代の人へ向けての取り組みは?

「二十四の瞳」を若い人に知ってもらうといった意味では、うちで企画したものをテレビ局や映画会社に売り込みました。例えば平成17年には、松竹日本テレビとコラボして黒木瞳・小栗旬・蒼井優というメンバーでテレビの放送を行いました。これは久しぶりの映像化ということもあり、視聴率が非常に高かった。

 

そのあと平成25年に、松下奈緒・濱田岳・玉山鉄二というメンバーで、テレビ朝日と松竹で同じように企画しました。それによって少しでも二十四の瞳を若い人に知っていただく機会にはなったと思います。最初の映画化から今までに、いろんな風に形を変えた「二十四の瞳」が、過去10回も映像化されているんです。

映画上映が行われている「松竹座」

Q:他に若い人向けに取り組んだ事は何かありますか?

枠を広げていくという意味で、平成18年に各映画会社(東宝・松竹・東映日活大映角川書店管理))にお願いして、古い日本映画を若い人たちに知っていただく「キネマの庵(いおり)」というギャラリーを建てました。そののち、映画「八日目の蝉」の原作と出会い、日活と一緒に小豆島でロケをしてほしいという働きかけをすることで、映画「八日目の蝉」の誘致が実現しました。

 

結果的には全国でもたくさんの方に支持されて、原作本がベストセラーになったこともあり、小豆島の良さを全国の皆さんに知っていただけたと思います。また、第35回の日本アカデミー賞で10冠を獲得したことで、各監督以下俳優・製作陣の皆さまからも小豆島についてのお礼のコメントをいただき、多くの方々に小豆島をPRする事ができました。

往年の日本映画を若い人たちに知っていただく「キネマの庵(いおり)」

Q:映画の誘致というのは具体的にどんな事を行ったのですか?

無償で撮影に協力するという「フィルムコミッション」というやり方がありますが、今回は映像支援実行委員会というのを作って小豆島全体で支援しようというのを決めました。金銭的な協力を含め、居酒屋やコンビニ、大きな劇場でのキャンペーンなど含め宣伝に関しても配給側と一緒になって行いました。地域がよそを向いているようでは良いものはできないと思います。
何千人というエキストラが関わって、その人たちが一緒になって作り上げる。自分たちの映画だという意識が、作品を作る意味において非常に大切なことです。

第35回の日本アカデミー賞で10冠を獲得した映画「八日目の蝉」

Q:平成18年に映画村としてある決断をしたと聞きました。詳しく教えてください。

2つありまして、1つは小豆島に関わる映画、特に邦画を中心に積極的に紹介していく事、もう1つは「二十四の瞳」を取り巻く時代の他の作品も紹介していくという事を決めました。ツアーで来る老人会や年金旅行の方々は作品を知っていることもあり、喜んでくれていました。ですが作品は基本、風化します。そこで、若い人たちにとって魅力的なものは何かと考えた結果、ギャラリーをオープンさせたり、夏休みの夜のライトアップイベントを企画したりしました。

「松竹座」館内

Q:映画以外の部分ではどんな取り組みをされたのでしょうか?

平成24年には、松竹・浜松市・小豆島町と合同で「木下恵介生誕100周年イベント」を行いました。映画村という施設に拘らず町を巻き込んでのイベントをお願いしたんです。
どういうことをしたのかというと、東京の昭和30年代の古い映画館を再現した「ギャラリー松竹座映画館」を開館したり、ミュージカル「二十四の瞳」(主演・島田歌穂)を企画し、地元・小豆島での4回公演をはじめ、姫路・東京・神奈川でも公演したりしました。また、角川書店と組んで「二十四の瞳・読書感想文コンクール」を行い、脚本家山田太一氏を審査員長に迎え、全国レベルでPRするといったことも行いました。

 

また、平成25年には、映画村の外壁に「シネマ・アートウォール」を作成しました。これは54メートルの壁に1940年代からの松竹映画の名作20作品のフィルムをパネルアートとして繋げる圧巻のものです。今年は、第3回瀬戸内国際芸術祭に合わせて作品を誘致し、プロダクトデザイナー清水久和氏に作品「愛のボラード」を制作してもらいました。

 

さらに、本と接する場所として今年4月にはブックカフェ「書肆海風堂」をオープン。ジャンルは映画・演劇・小豆島に関わるものに特化した本を集め、お茶を飲みながら本を読んでいただけます。また「劇団☆新感線」とコラボして、「劇団☆新感線」全国初のブースを映画村に作りました。東京・大阪・福岡・北海道などの大都市と並んで、「劇団☆新感線」を映画にした「ゲキ×シネ」を四国では小豆島映画村だけが上映し、若い人たちに支持されているものを取り込みながら映画「二十四の瞳」だけではなく邦画の素晴らしさを紹介しています。

ブックカフェ「書肆海風堂」

 

(後編へ続く)

専門家:城石 果純

早稲田大学人間科学部卒業後、株式会社リクルートに入社。
入社2年目に第1子を出産した事で、時間あたり生産性の概念に興味を持つ。
第2子出産時に小豆島に移住。それ以後、時間と場所に制約を抱えながら
MVP・通期表彰などの事業表彰を獲得し続けた事で、
リクルートグループがリモートワークに取り組むきっかけを作った。
現在は、「地域と組織のサポーター」としてフリーランスで活動。小豆島在住の3児の母。
地域の良いものを掘り起こしてコーディネートする事と「ひとのチカラ」を活かす事を大切にしている。