2012年に刊行された著書『モバイルクラウド』(中経出版)でテクノロジーの進化がもたらす新時代のワークスタイルを予見した、シスコシステムズ合同会社・戦略ソリューション・事業開発ディレクターの八子知礼さん。

「働くこと」「生きること」への価値観が多様化し続ける今、予測される新たなワークスタイルの潮流とは何なのか。ご自身のキャリアを振り返りながら、じっくりと語っていただく。第1回では、八子さんのキャリアの源流である松下電工時代から、コンサルティング業界へ転身するまでのエピソードを伺った。

泥臭く電気街を歩き回る新人研究者

Q:八子さんは新卒で松下電工に入社されています。どのような動機で入社したのでしょうか?

八子知礼(以下:八子)

大学院時代に人工知能の研究をしていたんです。人工知能を使って住空間をインテリジェントにしていきたいと考え松下電工に入社し、研究所に配属となり、通信機器の開発に従事していました。

しかし、その頃関わったプロダクトのいくつかで、単体での収支が赤字だったんですよね。「赤字はおかしい」「ちゃんとお客さんのニーズを汲み取るべきだ」と考えて、大阪の電気街に足を運んでマーケットリサーチをしていました。「これくらいの価格帯で、こういう機能であればマーケットにウケるものが作れるはずだ」といろいろな企画を立てて、企画部門に持ち込んで。入社3年が経った頃には、ゼロ段階の企画から製品づくりを手がけたいと考えるようになっていましたね。

Q:研究職でありながら電気街を歩き回ったり、お客さんの声を聞いて回ったりという行動は珍しいように思うのですが……

八子:

まあ、新卒ではそんな人はいませんでしたね(笑)。

製品の企画担当者であればマーケットリサーチとしていろいろなものを見に行くでしょうが、新卒1、2年目の研究職で電気街の店頭で値段調査をするような人はいませんでした。実務ではハンダごてを握って電子回路を設計し、その合間に電気街を歩くという、泥臭いことをやっていたんです。

マーケットに応えたい……「商品開発」への思い

Q:その思いが松下電工での新規事業開発につながっていったのでしょうか?

八子:

そうですね。当時、新規事業だった介護部門の社内公募に手を上げて移籍しました。介護のビジネスも情報通信の技術を使ってもっともっと効率化していかなければ、労働集約型の産業としてずっと回していくのは難しいだろうと考えていたので、その部門でITの力を使って面白いビジネスを立ち上げていきたいと思ったんです。

Q:マーケティングや新規事業開発に関わりたいという思いは、元から持っていたのですか?

八子:

そうですね……。マーケティングといっても広報宣伝の分野とはまた違う、企画段階からプロダクトへ関与するような「商品企画」をやりたいと考えていました。純粋なものづくりの前段階にある「企画」ですね

住環境やオフィスビルの環境をもっと人に優しく、インテリジェントにしたいという思いを持って住設機器メーカーである松下電工に入っていますので、「今よりももっと快適な製品を作れるんじゃないか」と。もしくは「マーケットで求められているものは、現段階で製品開発のプロセスに乗っているものとは違うんじゃないか」と常に考えていました。

ちゃんと消費者のニーズに合致したものを作りたい。その手段や手法としてのマーケティングがあり、その手段や手法としての商品企画開発のプロセスがあり……。ただ、最初に配属されたのはどちらかというと後工程の「企画されたものを作る」仕事だったんですよね。だから自分としては「その前工程の企画」からやらせてほしい、と。

研究室を飛び出した「異端児」の新規事業開発

Q:新規で取り組んだ介護事業では、具体的にどのようなプロダクトを展開していたのですか?

八子:

イメージしていただきやすいものでいうと「車椅子」や「電動車椅子」ですね。あとは「段差解消機」という小さなエレベーターのような機械。ほかにも、お風呂用の椅子や住宅用の手すりなど、さまざまなプロダクトを手掛けていました。製品だけではなく、デイケアや訪問介護、施設などのサービスそのものも隣接部門で企画してましたので、視察やニーズ調査を通じてそのサポートもしましたね。

Q:研究所でキャリアを積むという道ではなく、3年目で新規事業にスイッチしていくというのは、当時の社内では普通に行われていることだったのでしょうか?

八子:

いえ……異端児でしょうね(笑)。

当時の研究所の上司には、「腰を据えて5年くらいはやりなさい」とか、「忍耐が足りない」といったようなことも言われました。上司をはじめ研究畑でずっとやってきた人たちの組織でしたから、10年、15年は続けないと意味がないという考えもあったのだと思います。

私の場合は、幸いにして製品を量産過程に乗せることをそれまでの3年間で経験していました。ものづくりの工程や試験研究、たとえば電波室にこもって延々と2カ月くらい試験をするとか、そういったことも経験していて。次はやはり企画者として、よりお客さんにものが売れていくプロセスを経験したいと思ったんですよね。

成功体験から得たCRMの知見を広めるために

Q:その後はコンサルティング業界に移り、外資系コンサルティング会社やデロイトトーマツコンサルティングで活躍されました。どのような思いで転身したのですか?

八子:

松下電工時代、「お客さんにウケるものを作る」という発想で介護事業での商品企画や新規事業開発に一通り携わりました。マーケットのニーズに合致したものを作ることで、きちんと利益が取れる事業になっていくことを経験したんです。

こうした考え方をもっとたくさんの企業に知っていただきたいと思うようになりました。当時キーワードとして流行っていた「CRM」(カスタマー・リレーションシップ・マネジメント)の考え方ですね。それで外資系コンサルティング会社に転職したんです。社会人4年目の半ば、ちょうど30歳でしたね。

Q:転身後は、具体的にどのような案件を手掛けていたのですか?

八子:

コンサルタントになって間もない頃は、大手製造業の調達購買改革を担当しました。その後は顧客接点の大改革を食料品系の会社で担当。そうした経験を3年ほど経て、その後は一貫して通信・メディア・ハイテク業界に関わっています。IT業界には比較的明るかったので、その領域であれば一歩突っ込んだ話もできたんですよ。通信機器を作っていたというバックグラウンドもあったので、お客さんと話が合うことも多くて。

Q:その時点で、さまざまなキャリアの変遷を経験していたことが生きたわけですね。

そうですね。「ものづくりが分かる」「ものづくりの中でも通信領域が分かる」「松下電工時代での介護事業の経験から顧客接点のあり方や課題感も分かる」と。ある程度のマルチな経験をその時点で積んでいたことは強みになりました。「ものづくりとサービスビジネスは違う」ということも分かっていたので。

20代で身に付ける専門性がその後のキャリアにつながる

Q:20代からさまざまな経験を積んできた背景には、どのような思いがあったのでしょうか?

私自身のキャリア設計の考え方としては、5〜7年を一つの区切りとしているんですよ。転職し、概ね3年程度でその会社に恩返しができて、5〜7年が経つ頃には同じ仕事が繰り返されるタイミングになってくるのかな、と。なので、その時期が来たら次のキャリアを設計したほうが新しいステージに上がっていけると常々考えていて。

私は結果的にさまざまな経験を短期間で積むことができ、コンサルタントとしても応用が効きました。コンサルタントだけでなく、ビジネスパーソン全般にも同じことが言えると思うんです。できるだけ若いうちに、ちょっと毛色の違う業務・業界を経験しておくほうが良い。

それは必ずしも転職という手段だけではなく、1社の中で、5年程度のスパンでいろいろなことを経験させてもらうという方法でも良いと思います。自分の専門性というものはほとんど20代のうちに決まってしまうんじゃないでしょうか。

周りから見れば、20代のキャリアがベースと見なされることが多い。好むと好まざるとに関わらず、少なくともそれが30代以降にはその方の専門性として見なされてしまう。もしくはそれをベースに仕事をせざるを得ないこともあるでしょう。そういった意味では、20代のうちに「これだ」と言える自分の専門性を二つ、三つと持っておいたほうが良いと思うんですよ。

 

《編集後記》

学生時代から抱いていた商品企画への興味と思いを大切にし、周囲からの「アドバイス」を振り切って貪欲に挑戦。そんな若手時代の経験が、八子さんのキャリア観の原点となり、コンサルタントとしての武器となっていた。

第2回では、シスコシステムズでの企業間アライアンスの取り組み、そしてテクノロジーの進化が後押しするワークスタイルの変化について伺う。

 

取材・記事作成:多田 慎介・畠山 和也

八子 知礼 氏

シスコシステムズ合同会社 戦略ソリューション・事業開発ディレクター。
大学卒業後、松下電工株式会社(現パナソニック株式会社)にて介護用品・サービスや通信機器の企画開発に従事。その後外資系コンサルティング会社、デロイトトーマツコンサルティング株式会社などを経て現在に至る。通信・メディア・ハイテク業界を中心に、商品戦略、新規事業戦略、バリューチェーン再編、企業アライアンスによる事業創出などを多数手掛ける。「モバイル」「クラウド」「ワークスタイル」に関する寄稿・講演多数。

著書に『図解 クラウド早わかり』『モバイルクラウド』(中経出版)がある。